2020年2月22日 (土)

【映画評 感想】1917 命をかけた伝令

1917-0011917 命をかけた伝令」(原題=1917)を見ました。先日のアカデミー賞で10部門ノミネートされ、撮影、録音、視覚効果賞の三冠に輝きました。この三冠の意味するところは、つまり「劇場の大スクリーンで見るべき」という感じがします。

 

最初から話題になっていた、冒頭からエンディングまで切れ目なく続く迫力のワンカット撮影は単に見事というレベルではなく、「どうやったらこんな映像が撮れるのだろう」とあっけにとられてしまいます。サム・メンデス監督と、撮影監督ロジャー・ディーキンスの手腕には脱帽です。

 

この作品は、基本的には創作ですが、実際に第一次大戦で英陸軍の伝令兵として活躍したサム・メンデス監督の祖父、アルフレッド・メンデス(1897 – 1991)の実体験をベースにしている、といいます。このアルフレッド氏はトリニダード・トバゴ出身で、英国留学中に軍に召集されてしまったようです。ちなみにアルフレッド氏は、その後、著名な小説家となりました。このお祖父さんの才能が、孫の監督にも受け継がれているようですね。メンデス監督は、以前からワンシーンで完結する映画を撮ってみたい、と思っていたそうで、そうなると比較的、短い時間で凝縮された物語や設定が必要になります。危険な戦場を突破しなければならない伝令兵、という祖父の体験談が、ここに生かされたわけです。

 

これまで、第一次世界大戦(191418)について、多くの映画が作られてはきましたが、どうしてもその後に起こった第二次世界大戦(193945)の方が、テーマとしては人気が高いものがありました。特に、カラーの大作映画がたくさん製作された196070年代は、まだまだ第二次大戦に従軍した経験者が多数、健在であり、俳優さんたちも軍歴がある人ばかりでした。飛べる飛行機や動かせる戦車なども多く残っており、やはりその時期に製作された作品のホンモノ感は、最近のCG技術でどんなに精巧な再現をしても、真似できません。

 

しかし近年になって、さすがに第二次大戦ものもネタ切れ感が強くなりました。これまで、あまり戦史のテーマとして人気が高くなかった「ダンケルク」絡みの映画が相次いで出現したのも、ネタの掘り起こしをしないとマンネリが打破できない、という意識の表れでしょう。

 

世代も移り変わり、2020年代の今となりますと、100年ほど前の一次大戦も、80年ほど前の二次大戦も、同じように「歴史上の戦い」として客観視できるようになってきています。歴史研究もむしろ近年の方が進んでいます。そんな中で、「戦場のアリア」あたりに始まり「戦火の馬」、さらに「ワンダーウーマン」のような娯楽作品まで、徐々に第一次大戦を取り上げるようになってきているようです。

 

今回、アカデミー・ノミネートは逃しましたが、すでに「アンナ・カレーニナ」で衣装デザイン賞の受賞歴があるジャクリーン・デュラン、「スター・ウォーズ」シリーズでも衣装を担当したデビッド・クロスマンによる服装の考証も実に的確です。兵卒と将校、さらに将軍では、同じイギリス軍といっても、その身分・階級で細かい軍服のデザインや、生地の質、色、仕立てが全く違います。エリンモア将軍はラペルにボタンホール(いわゆるフラワーホール)がある古風なパターン1914背広型上着、しかしその他の将校はもう少し後の時期の、フラワーホールがない野戦向けの上着、などと、芸が細かいところをしっかり押えております。

 

一部の将校が被っている野戦用制帽とか、後ろ襟に貼り付けた指揮官識別章、兵士が着ているパターン1902軍服の粗い生地の重苦しさ、英軍独特のジャーキン(革のベスト)の質感、歴戦の兵士スコフィールドが左袖口に付けている戦傷章…など、行き届いた時代考証が、ドキュメンタリーを見ているような錯覚を覚えさせてくれます。イギリス軍の有名な「洗面器型」M1915ヘルメットが、本当に洗面器として使用されるシーンなども出てきます。心憎い演出です。

 

土嚢を積んだ簡素で狭苦しい英軍の塹壕と、セメントブロックで構築された、いかにも築城陣地、という感じのドイツ軍の塹壕との対比。凄惨な人馬の死体が埋め尽くす戦場シーン、撤退したドイツ軍が破壊していった重砲や機銃座、薬莢の山…ひとつひとつの手抜かりのなさが、「これが戦場だ」という臨場感を圧倒的な迫真力で見せつけてくれます。これだけのホンモノの陣地セットを準備するのにどれだけ労力がかかっただろう、と感心を通り越して、あきれてしまうほどです。

 

と、手放しでこの映画の追求するリアリティーを称賛してしまいますと、しかし、この映画があくまで現代の劇映画であって、ドキュメンタリーでも再現ドラマでもないことを忘れてしまいます。実際には、史実とは違う点、というのも多々あり、それは私も見ていて気になった部分でした。

 

いちばん気になったのは、英軍兵士の中に、かなり有色人種の兵士、つまり黒人とかシーク教徒インド人、といった人たちが混じっていること。もちろん、当時も英連邦内の各国から兵士が参戦しており、黒人やインド人もいたのは史実ですが、やはり実際には、正規の英本国の歩兵連隊に、それらの外国籍の兵士が入ってくる、ということはなかったようです。あくまで出身国ごとに編成された部隊として集団で運用されたはず。よって、当時の白人の英国人兵士が、外国出身兵と通常の任務中に交わることは、まずなかったでしょう。ただし、メンデス監督の祖父のように、あくまで英国兵士として召集されてしまった外国人は、少数いたようです。それにしても、有色人種をあえて混ぜているのは、ハリウッドの人種感覚を気にしたのでしょうか。何が何でも黒人を入れないといけないのでしょうか。歴史的にあり得ない場合にでも? 最近、このあたりは行き過ぎている気がします。

 

映画の背景となったのは、実際に1917年の春、ドイツ軍がしかけたヒンデンブルク防衛線への戦略的撤退作戦、のようです。しかし、当時の実際の英軍は、人的な損害には非常に無関心で、何十万人が死んでも何とも思わないような無頓着な作戦指導が普通でした。それが、1600人ほどの大隊の兵士の死傷のために尽力する、などということが、史実としてあったように思われるのは困る、という指摘が海外ではあったようです。このへんはしかし、どこの国の、どんな時代の組織(軍隊に限らず、役所でも会社でも)においても、立派な指揮官もいれば、愚かな指揮官もいるわけで、当時の英軍にも劇中のエリンモア将軍のような人がいたかもしれませんので、このへんはなんとも言えません。

 

私が見ていてもう一つ思ったのが、途中で戦闘機の空中戦が描かれますが、ここでドイツのアルバトロス戦闘機と戦っているのは、どうも英軍のソッピース・キャメルのように見えます。しかし、当時すでに旧式化しつつあったアルバトロスはいいとして、キャメルの方はかなり後半に登場した飛行機で、時期的に合うのだろうか、という疑問でした。この点についても、すでに海外では軍事史に詳しい人たちから指摘があったようで、ソッピース・キャメルは1917年の秋に登場した新型機であり、本当はこの映画の時期(19174月)には飛んでいない、ということのようです。

 

しかし、逆に言いますと、そういうマニアックな時代考証のあら捜しをしても、その程度しか見つからないほど、見事に行き届いた再現度の映画です。

 

【あらすじ】第一次大戦も終盤が近づいた191746日、休息していた第八歩兵連隊のブレイク上等兵(ディーン=チャールズ・チャップマン)は、突然、直属上官の軍曹から、もう一人、誰かを選んで二人で司令部に出頭するように命じられます。ブレイクは戦友のスコフィールド上等兵(ジョージ・マッケイ)を伴い、司令部壕に行ったところ、意外なことに待っていたのはエリンモア将軍(コリン・ファース)でした。

 

将軍はブレイクに、エクーストの町の南東にあるクロワジルの森に布陣しているデヴォンシャー連隊第二大隊に伝令として向かうように命じます。ドイツ軍は急に撤退して後方に下がっており、これをチャンスと見た大隊の指揮官マッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、独力でドイツ軍を追撃して撃滅する計画を立て、明朝、作戦を実行することになっています。しかし、将軍が航空偵察で得た情報を分析したところ、ドイツ軍は故意に撤退したのであり、追ってくる英軍を撃破するために罠を仕掛けている、というのです。

 

第二大隊には、ブレイクの兄、ブレイク中尉(リチャード・マッデン)が属しており、このまま攻撃を開始すれば、兄の命もほとんど確実に失われることが予想されました。連絡手段は絶たれており、伝令が直接、現地に向かうしか作戦を止める方法はありません。動揺したブレイクは、日没まで行動を待とう、という歴戦のスコフィールドの提案を無視し、兄の身を案じて白昼堂々、敵の支配する戦場に飛び出していきます。しかし、行く手にはドイツ軍が仕掛けた爆弾や、危険な狙撃兵、頭上には戦闘機が飛び交い、自分たちの命の保証もありません。

 

偶然、出会った自動車化部隊の将校スミス大尉(マーク・ストロング)は、途中までトラックに乗せてくれたうえで、将軍の命令書をマッケンジー大佐に渡す際には、必ず第三者も立ち会っているところでしろ、と忠告してくれます。意地になっている大佐は、命令を握りつぶすかもしれない、というのです。

 

炎上するエクーストの町でフランス人の優しい女性ラウリ(クレア・デュバーグ)に心を惹かれながら、任務を続行するスコフィールドは、ドイツ軍の追撃をかわして川を泳ぎ渡り、森の中で集合しているイギリス軍の部隊と遭遇しますが…。【ストーリーここまで】

 

ところで、ブレイクとスコフィールドの階級はランス・コーポラルLance corporalといい、コーポラル(伍長)Corporalより下、プライベート(兵卒)Privateよりは上、という身分です。伍長の上にはサージャント(軍曹)Sergeantがあります。伍長から上が下士官という扱いで、企業でいえば主任クラスの中間管理職のような立場。さらにその上にいるのが中尉とか大尉、大佐といった将校たちで、上級管理職の人たち。もっと上にジェネラル(将軍)Generalがいて、これは重役さんというところです。よって、中心人物の二人は平社員よりちょっと上の、主務社員とか主幹社員、といった感じの人たちです。

 

それで、日本語訳として、このランス・コーポラルを「兵長」とする場合と、「上等兵」とする場合があります。これは、旧日本陸軍では、このぐらいの階級に「兵長」と「上等兵」が存在したからで、あくまでも外国軍の階級を日本軍に当てはめているので、どちらが正解ということはありません。今回は、映画の字幕に従って、2人を上等兵と表記しておきます。

 

コリン・ファースにカンバーバッチ、マーク・ストロングなどの重鎮が、いかにも英国将校らしい風格を漂わせています。ブレイク中尉役のマッデンは、「シンデレラ」で王子様をやっていた人。彼の演技は最後、泣かせます。そしてなんといっても、伝令兵の二人。まだまだキャリア的にはこれからの人たちですが、ここから大物になっていきそうです。

 

何しろワンカットを実現するため、リハーサルは通常の映画の、なんと50倍も時間がかかった、といいます。どちらかというと、舞台の演劇のような感じで、完璧な演技をして、撮影そのものはできるだけ一発で、といったスタイルで撮ったようで、その苦労に報いるだけの名作になったと思います。忘れがたい第一次大戦映画の代表作のひとつになったことは間違いありません。

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2020年1月29日 (水)

【映画評 感想】キャッツ

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映画版「キャッツ」Catsを見ました。アメリカで酷評され、同時期に「スター・ウォーズ」最終章と、「アナ雪」続編という強敵が上映されたことも加わって、興行的にも惨敗。そんな話が伝わって、どんなものかと思いました。しかし、私は劇団四季の劇場版ミュージカルも見たことがあるのですが、そこまで酷評されるような作品だろうか、と思いました。個人的には、すごく良かったのです。

 

 

 

おそらく、いわゆる「不気味の谷」現象というもの。つまり人間そのものの動き、表情、という精度が高すぎるのに、明らかにネコというキャラが生理的にダメ、という人が多いのが最大の敗因だと思います。CG処理が気持ち悪い。大方の悪評がこれでした。しかし、もともとキャッツというのは、ネコの格好をした俳優がネコになりきって歌い踊る、という、相当に奇天烈な舞台であり、1981年にミュージカルが大ヒットしたとき、むしろどうしてあれがあんなに支持されたのか、不思議なようなものでした。

 

 

 

ひとえにアンドリュー・ロイド=ウェバーの楽曲が素晴らしいこと、特に「メモリー」が名曲すぎること。これに尽きたと思います。1939年に文豪TS・エリオットが書いた原作は、子供向けに書かれた詩集であり、ストーリーも設定もない小品です。これに壮大華麗な楽曲をつけ、ダンスを振り付け、一大舞台芸術に仕立て上げたロイド=ウェバーとキャメロン・マッキントッシュの才能が最大限に発揮された所産、という感じです。

 

 

 

舞台では、俳優たちは着ぐるみをつけて派手なメイクをし、ネコになりきって演技しますが、不思議とステージでは違和感がありません。どう見ても「ネコの振りをしている俳優」が熱演しているのであり、すぐに客席は一体感に包まれて、最初に受ける奇妙な感じを忘れ去ります。客席とステージの間にはオーケストラ・ピットがあり、俳優たちはかなり遠くで演技をしています。それもあって、違和感はすぐに払拭されるものです。

 

 

 

しかし映画化というのは、そこが難しいところで、芝居を遠くから撮影しているような演出では、単なる芝居のドキュメンタリーになってしまいます。当然、大写しにしたり、表情のドアップが挟まったり、舞台よりも精緻なディテール表現が求められる一方で、ライブの魅力、一回限りの緊張感、といったものは削がれてしまいます。いわば、生でスポーツの試合を見るのと、その結果を録画した再放送を見るぐらいの差異があります。トム・フーパー監督は、撮影時に俳優の生の歌声を同時録音する(後で音入れをしない)、という手法でライブ感を維持することで、この映画化の壁を乗り越え、「レ・ミゼラブル」ではミュージカルの実写化として大きな成功を収めました。しかし今度はハードルが髙かったようです。

 

 

 

今回の映画化で採用されたのは、俳優たちの演技をモーション・キャプチャーで撮影し、ネコの毛皮を後で画像処理して貼り付ける、という手法です。どうもこれが、よくなかったようです。やはり舞台と同じように、俳優たちには大変ですが、メイクや着ぐるみを付けてもらって、「ネコになりきった俳優」として演じてもらう方が正解だった気がします。確かに今作のキャラクターは「人間化した不気味なネコ」になってしまっています。舞台版の俳優たちでは出来ないこと、シッポや耳の動きを本物のネコのように自在に動くようにしたのも、かえって痛かったように見えます。

 

 

 

むしろ、あまりネコになっていない、ほとんどその人そのまま、という感じのジュディ・デンチとイアン・マッケランのベテラン二人の演技が、驚くほどいつもの本人そのものであるように見えたのも事実。マッケラン自身が「私はネコを演じてはいないし、ネコになろうともしていない」とコメントしているのは、そのへんの違和感というのを、長い芸歴からくる直観で、事前に洞察していたからかもしれません。マッケランが猫界の老俳優になって、「近頃の若い奴らの芝居はなっていない」と叱りつけ、往年の当たり役を披露する、というくだりの説得力は迫力があって、全編の中でも際立っています。日本語版では宝田明さんが担当しているのも、うなずけるところです。

 

 

 

【ストーリー】満月が輝く夜、ゴミ捨て場に放り出された子猫ヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)。そこで彼女が出会ったのは、陽気に歌い、踊る「ジェリクル・キャッツ」の面々でした。その夜は、ネコたちの一年に一度の舞踏会が開かれる日。長老デュトロノミー(ジュディ・デンチ)に選ばれた、たった一匹のネコだけが、天上の世界に昇って「本来の自分」に生まれ変わる日です。

 

 

 

個性豊かなネコたちと触れ合う中で、臆病なヴィクトリアも、自分というものを取り戻していきます。そんな中、かつては華やかなスターだったのに、落ちぶれて、今ではみんなに忌み嫌われる年老いたグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)の寂しい後ろ姿に、ヴィクトリアは心惹かれます。

 

 

 

一方、この日の饗宴を妨害しようと企む悪者、お尋ね者のマキャヴィティ(イドリス・エルバ)とボンバルリーナ(テイラー・スウィフト)の暗躍がちらつき、何やら不穏な空気も立ち込めます。やがて、月が昇り切り、ネコたちが躍動する中、今年の一匹が選ばれる瞬間が近づいてきますが…。【ストーリーここまで】

 

 

 

私は今回まで知りませんでしたが、81年の舞台版の初演で、ジュディ・デンチはグリザベラ役に決まっており、本来なら、初代の「メモリー」を歌う歌手、となるはずだったそうです。このときはケガで降板し、今回は40年ぶりに長老ネコとして登場することになったそうです。舞台版では男優がやる長老をデンチにしたことで、彼女と、イアン・マッケランが演じる老猫の間で、若いころに何かあったな、と匂わせる演出は面白いです。

 

 

 

テイラー・スウィフト、それから「メモリー」を歌うジェニファー・ハドソン。この二人のグラミー賞歌手も、あまり「ネコ」を感じさせない自然さが結果としてよく出ていたと思います。この大物歌手たちの歌唱は、やはり大きな見せ場です。本来、トップ・バレリーナであるフランチェスカ・ヘイワードも美しい歌声を聞かせてくれます。「この人は、ネコでない状態だとどんな感じなのだろう」と思った人も多いと思います。ぜひ、普通の映画にも挑戦してほしい人材です。

 

 

 

そういえば、本作で太った雌猫ジェニエニドッツを演じるレベル・ウィルソンは、今、日本で同時上映中の「ジョジョ・ラビット」でも、ナチスの恐ろしい女性教官という役柄で怪演しています。大活躍ですね。

 

 

 

私個人としましては、本作を見て、あまり「不気味の谷」に引っかかることはありませんでした。舞台版の延長のように見えたので、すぐになんとも思わなくなりました。キャッツとは、そもそもオリジナルの時点で奇妙な作品なのです。そうなると、なんといっても楽曲の素晴らしさに心地よく心を奪われ、「メモリー」まできて「やっぱりこれは名曲だよな」と思わず感嘆し、すでによく知っている展開であるのに、改めて感動した次第です。やはり本作のキモは「メモリー」に尽きます。コンサートでも「早くあのヒット曲、やらないかな」という心境でエンディングからアンコールまで待つ、ということがありますが、まさにあんな感じでしょう。前評判に煩わされることなく、見に行ってよかった、と素直に思いました。ちなみに、一緒に見た妻も、CGになんの抵抗もなく感動したそうです。ぜひ、実際にご覧になって、酷評が正しいかどうかをご確認いただければ、と思います。

 

 

 

 

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2020年1月28日 (火)

【映画評 感想】ジョジョ・ラビット

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映画「ジョジョ・ラビット」Jojo Rabbitを見ました。「マイティ・ソー」シリーズで知られるタイカ・ワイティティ監督の話題作で、20202月のアカデミー賞レースでも、作品賞をはじめ一気に有力候補となりました。本作で助演女優賞ノミネートを受けたスカーレット・ヨハンソンは、「マリッジ・ストーリー」で主演女優賞の候補にもなっており、一挙に注目が集まりました(ちなみに「マリッジ…」では、あの「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが主演男優賞候補になっています)。

 

 

 

第二次大戦下の悲惨さを描いた映画は数多くあり、この時代の少年少女をテーマにした作品というのも、古くはドイツ少年兵たちの悲惨な戦場経験を描く「橋」が忘れられません。近年でも強制収容所をテーマにした「ライフ・イズ・ビューティフル」とか「縞模様のパジャマの少年」、敵の捕虜となったドイツの少年たちの過酷な運命を描く「ヒトラーの忘れ物」など、いくつか思い当たります。いずれも涙を禁じ得ない作品でした。

 

 

 

本作で登場するのは、戦争末期、ヒトラー・ユーゲントに入団し、教練を受けることになった10歳のドイツ人少年、ヨハネス・ベッツラーです。映画では、彼の愛称は最初からジョジョであり、その後、とある事件をきっかけに「ジョジョ・ラビット」というあだ名を上級生から付けられた、ということになっています。

 

 

 

【ストーリー】第二次大戦末期、ヒトラー・ユーゲントのキャンプに参加したジョジョ(ローマン・グリフィン・デービス)は、10歳になっても靴ヒモも結べない子供ですが、ヒトラーを敬愛し、心の友アドルフ(タイカ・ワイティティ)として慕っています。現実の友は、こちらも落ちこぼれ気味のヨーキー(アーチー・イェーツ)ただ一人。キャンプでは戦地帰りの負傷兵である配属将校クレンツェンドルフ大尉(サム・ロックウェル)の指導の下、厳しい教練が待っていました。

 

 

 

ある時、上級生からウサギを殺すようにけしかけられ、できなかった彼は臆病者の「ジョジョ・ラビット」というあだ名を付けられてしまいます。しかし「心の友」アドルフの激励を受けたジョジョは、大尉が手に持っていた手榴弾を勝手に奪い、無断で投擲してしまいます。それはジョジョのすぐそばで爆発し、ジョジョは重傷を負います。

 

 

 

家に帰ることになったジョジョは、この一件で教官職も外され、内勤に回されたクレンツェンドルフ大尉の下で、召集令状を配ったり、公認のビラを貼ったり、金属回収をしたりといった雑用をすることになります。

 

 

 

母親ロージー(スカーレット・ヨハンソン)は、いつも忙しく何かをしており、明らかにジョジョに隠し事をしています。やがて彼は、二階の亡くなった姉インゲの部屋の奥から物音がすることに気づきます。そして隠し扉の奥から現れたのは、彼がユーゲントや学校で悪魔として教えられたユダヤ人の少女、エルサ(トーマシン・マッケンジー)でした。しかし彼女との出会いが、頑ななナチス信者で軍国少年だったジョジョを少しずつ、変えていきます。その変化に、「心の友」アドルフは不快感をあらわにするようになってきます。

 

 

 

ロージーが本心ではナチス体制を嫌悪していることも悟り始めたジョジョは、次第にエルサに惹かれていきます。そんなある日、ロージーが留守の時に、ゲシュタポの指揮官ディエルツ大尉(スティーブン・マーチャント)が踏み込んできて、家宅捜索を始めます。エルサの存在を知られたら、一家全員が逮捕されて処刑されるでしょう。絶体絶命のピンチで、姿を現したのは意外なことに、クレンツェンドルフ大尉でした…。【ストーリーここまで】

 

 

 

ところで、少しでもドイツ語に素養のある方ならすぐに、「ドイツ人の名前や愛称として、ジョジョなんてあるわけないだろう」と思うはずです。その通り、ドイツ語では語頭のJは英語のようにジェイと読むことはありません。JAPANもドイツ語圏ではヤーパンと読みます。Jojoという言葉も、普通のドイツ人は「ヨヨ」としか読まないはず。それよりなにより、ヨハネスという名前の人の愛称なら、普通は(特に戦時下という時代なら)「ヨハン」とか「ハンス」、すこし今どき風に言っても「ヨー」といった感じのはずです。

 

 

 

ラビットというのも英語ですね。ドイツ語ならウサギはKaninchenHaseでしょうが、映画で出てくるペット然としたものは、カニンヒェンの方でしょう。こうしてみると、「ジョジョ・ラビット」などという呼び名は、ちっともドイツらしくない、ということになります。本当なら「ヨハン・カニンヒェン」とか、そんな感じであるべきところでしょう。

 

 

 

そのためでしょうか。ドイツ語版のWikiを見ますと、この映画の説明として、ヨハネスはある事件をきっかけに、ジョジョという不名誉なあだ名を付けられることになった、と書いてあるようです。おそらく、そのような解釈にしないとドイツ語圏の人たちには不自然極まりないからではないかと思うのです。

 

 

 

その他、この映画は必ずしも「時代考証的に正しい」映画では決してありません。ヨハンソンが演じた母親ロージー・ベッツラーのRosieというのも、英語圏の通称っぽく感じます。本名はローザか何かだと思われるのですが。ただ、この映画をずっと見ると、この母親がいわゆるかなりぶっ飛んだ人であり、戦時下のドイツではありえないほどの自由人で、戦前はおそらく長いこと、海外で過ごしたのではないか、あるいは、本来は外国籍の人なのでは、と思われる描写が出てきます。よって、ロージーとかジョジョとかいう名前をあえて付けている、ということもあり得ますが、本当にそんな通称では、それは当時のヒトラー・ユーゲントでは無事で帰れないのは当然でしょう(!)。

 

 

 

映画の中で、しばしばナチスとかナチとかいう言葉が出てきますが、これも戦時下のドイツでは使われなかった用語です(少なくとも表立っては)。そもそもナチというのは敵対勢力がつけた蔑称ですので、だから「ヒトラー最期の十二日間」とか、もっと古いドイツ語圏の戦争映画などを見ても、ナツィオナルゾツィアリスティッシェ…うんぬんと、どんなに長くとも「国家社会主義ドイツ労働者党」に当たるドイツ語で表現したり、略称としてならNASDAPなどと表現したりしております。

 

 

 

この作品には原作があって、クリスティン・ルーネンズという作家が書いた『Caging
skies
』(直訳すれば、カゴに囚われた空、という感じでしょう)なる小説です。このルーネンズさんはアメリカ出身ですが、ほとんどを欧州で暮らし、若いころはファッション・モデルとしてジバンシーやニナ・リッチのランウェイを歩き、今はニュージーランドに移住している、という方。つまり心の底から国際人で自由人、という女性です。その小説を読んで感銘を覚えたのが、ユダヤ系マオリ人で、母国ニュージーランドを出てハリウッドで活躍するタイカ・ワイティティ監督だったわけです。監督にこの原作を勧めたのは、ユダヤ系ロシア人である母上だったとか。

 

 

 

そういう背景で作られたので、むしろ「時代考証的に正しくない」ことをあえて意図的に仕込んでいる、確信犯的にそうしている映画なのだと思えてきます。映画の冒頭では、いきなりビートルズの「抱きしめたい」のドイツ語バージョンが流れて度肝を抜かれます。終盤では、今度はデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」の、これまたドイツ語版が効果的に使用されます。意図的に、時代的には合わないのだけど、表現としては効果的な文脈で、おかしな不協和音的な要素をあえて盛り込む、というのは音楽の使い方からもよく理解できます。

 

 

 

極めつけは、ジョジョ少年が心の友としている「彼の頭が生み出した幻影のアドルフ・ヒトラー」です。彼は実在の総統ヒトラーとはあまりつながりがありません。何しろ、ジョジョ少年に何かとタバコを勧めるのですから。本物のヒトラーは大のタバコ嫌いで、総統本営は完全禁煙だったことは有名な史実です。だから、これは10歳の少年がこしらえた幻影である、ということです。

 

 

 

にもかかわらず、映画の後半になると、いかにも間抜けで無害にすら見えた「幻のヒトラー」が、徐々に本物のように激しく身振り手振りを加え、絶叫し、大義のために犠牲になる生き方を強いるようになってきます。それまでコメディアン然として演じていたワイティティが、明らかに「本物のヒトラー」を真似しているのです。そのシーンの強烈な落差と恐怖感が実に恐ろしいです。

 

 

 

本作はアカデミー衣装デザイン賞にもノミネートされました。軍服なども、ディテールが非常に凝っていて、たとえば準主役である歴戦のクレンツェンドルフ大尉の右腕に戦車撃破章、左胸に戦傷徽章が付いている、など芸が細かいです。少年兵が支給される末期の軍服の「紙みたいな材質で歩きにくい」スフ素材の劣悪な品質もよく描かれています。このように、こだわるべきところでは、史実に正確に、という努力を惜しまないわけです。

 

 

 

自由人である母親ロージーのファッションは明るくおしゃれであり、1940年代という時代的制約の中で、戦時下を感じさせない軽やかさがあります。彼女の赤茶と白のコンビシューズは、戦前に、おそらくパリか何かで作られたに違いない、と思わされます。この母親の靴が、「10歳になって靴ヒモも結べない」ジョジョ少年とのかかわりにおいて、重要な小道具になってくるのが見逃せません。

 

 

 

物語の終盤で、ヒトラーの自決後に、アメリカ軍とソ連軍が同時に攻め込んできた町があったのだろうか、とか、国民突撃隊(16歳から60歳までの全市民が参加)が最後に全滅するまで奮戦したところがあったのだろうか、とか、いろいろ史実的なことを考えてしまうのは、私のように戦史を扱うことを仕事にしてしまっている人の悲しい職業病で、ここでそういう「正しさ」を追い求めるのは野暮、というものです。この映画は一定程度、意図的にファンタジーとして描かれている、寓話的に描いている、ということが前提だと思われます。

 

 

 

ワイティティ監督が尊敬する映画人に、メル・ブルックス監督がいるそうです。「珍説世界史」や「メル・ブルックスの大脱走」、「プロデューサーズ」など、あくの強いコメディーで強烈なインパクトを残した人ですが、同監督が必ず作品で扱うのが、「ゲイ、ナチス、ユダヤ人」です。いわば西欧社会の三大タブーですね。これを、自らがユダヤ系であるブルックス監督は、逆手に取る形でこれでもか、と自虐的なブラックジョークに仕立ててきます。しばしばブルックス本人がヒトラーを演じてもいます。今回、ワイティティ氏自らがヒトラーに扮したのも、間違いなくそれに倣った強靭な精神があってのことと思うのです。ゲイであるらしいドイツ軍人が登場するのも、その一端でしょう。ブルックス作品の後継者、というのが本作の正しい位置づけのように思います。

 

 

 

本作でいちばん恐ろしい登場人物は、ゲシュタポ(秘密警察)の指揮官ディエルツ大尉です。大抵、こういう人物はにこやかで愛想よく、そして本心はものすごく残忍です。この配役に、英国のコメディアン、スティーブン・マーチャントを配したのも、的確でした。ブラックジョークの塊のようなゲシュタポ将校。上機嫌な間は、笑いが絶えず、ジョークを連発する。しかし彼がちょっとでも気を変えれば、人を何人か拷問し、処刑することなど、なんとも思っていないどころか、むしろ崇高な使命と確信している人物像。禍々しさが本当によく出ていました。おそらく本作で最も「本物らしい」人物ではないでしょうか。

 

 

 

一方、絵に描いたような戦争映画によく出てくる鬼教官なのかと思えば、実は「兵隊やくざ」そのものだったクレンツェンドルフ大尉。名優サム・ロックウェルが熱演していますが、本作の真のヒーローは彼だったかもしれません。そして、大尉とどうも恋愛感情があるらしい副官フィンケル曹長を演じるのは、アルフィー・アレン。近作でいうと「ジョン・ウィック」で主人公を怒らせてしまうアホなロシア・マフィアの息子、という役をやっていました。いろいろな映画で顔を出す個性派です。なお、ナチス体制下では同性愛は厳禁です。同性愛者はユダヤ人と同じく強制収容所送りになる、まさに身の破滅というわけです。この事実を知っていないと、「同性愛者のドイツ将校」なる存在の意味合いが理解できないと思うので追記しておきます。

 

 

 

もう一人注目なのが、女教官フロイライン・ラーム役のレベル・ウィルソン。トム・フーパー監督のミュージカル「キャッツ」でも重要な役で出演しており、まさに今、売れっ子のコメディエンヌです。彼女の役名が「フロイライン」、つまり英語でいう「ミス」であることも注目されます。18人の子供を産んで、「ドイツの母勲章」を受勲しているらしい彼女ですが、未婚である、という事実を意味します。当時は私生児でもなんでも、兵士となるべき子供をたくさん産むことが推奨され、引き取り手のない子供は親衛隊の孤児院が預かっていました。まさに恐ろしい体制だったのですが、そのあたりも本作は、さりげなく名前で暗示しているのでしょう。

 

 

 

ヨハンソンおよび、デービスとマッケンジーの二人の子役の演技は、すでにあちこちで絶賛されているので、ここでは省きますが、素晴らしい、の一言です。ここで追記したいのが、ジョジョの親友ヨーキーを演じていい味を出していたアーチー・イェーツ。実はこちらも天才子役で、かつてマコーレー・カルキンが演じた「ホーム・アローン」のリブート作品で、主演に抜擢されているそうです。こちらも将来が楽しみな逸材です。

 

 

 

とにかく、問題作の一つであり、2019年シーズンを代表する一作になったことは間違いありません。劇場で見ておきたい作品だと思います。

 

 

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2019年12月24日 (火)

【映画評 感想】スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け

Photo_20191224130901 スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けSTAR WARS: THE RISE OF SKYWALKER を見ました。1977年の第一作(エピソード4)から新旧合わせて9部作、40年以上にわたる大河シリーズの完結編、エピソード9です。アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)、ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナ、ベン・ソロ(カイロ・レン)と引き継がれたスカイウォーカー一族、3世代(厳密に言えばアナキンのお母さんシミも登場したので、4世代でしょうか)の物語も、ついに終焉を迎えます。

 

今の三部作の最大の謎。それはヒロイン、レイとは一体、何者なのか。これにつきます。なんの修行もせずに、初めからあまりに強大なフォースを操る彼女は、スカイウォーカー一族と関わりがある「レイ・スカイウォーカー」なのか。それとも違う出自の人なのか。あるいは全くの突然変異の天才なのか。物語の核心部分が解き明かされることとなります。

 

三部作の完結というだけでなく、9部作の完結ですので、いろいろと往年の事物に言及されることにもなります。ダース・ベイダーの基地があった星ムスタファーが登場し、かつて二つ目のデス・スターが堕ちたエンドアではイウォークたちが空を見上げる場面が描かれます。アナキンとルークの出身地、砂漠の星タトゥイーンでは、二つの太陽が見られます。前作で戦死したアクバー提督の息子アフタブが登場することや、旧シリーズの重要人物ランド・カルリジアンが、俳優も同じビリー・ディー・ウィリアムズで再登場するのも、昔からのファンには嬉しいサービスです。チューバッカがレイアの旧友マズ・カナタから、古い勲章を受け取るシーンなど感涙ものです。これはエピソード4のラストで、レイア姫の救出とターキン総督率いる最初のデス・スター破壊の功績をたたえて、ハン・ソロが授与されたものでした。

 

フォースと一体化した歴代の偉大なジェダイの魂が、苦戦するレイを応援するシーンが終盤に出てきます。ここではアナキン(ヘイデン・クリステンセン)、アソーカ(アシュレイ・エクステイン)、メース・ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)、オビワン・ケノービ(ユアン・マクレガーとアレック・ギネス)、クワイガン・ジン(リーアム・ニーソン)、ヨーダ(フランク・オズ)といった懐かしい声が復活します。この他にも、すでに世を去ったはずの意外な人物たちが再登場します…。

 

何よりの懐かしくも衝撃的な展開は、皇帝パルパティーンの復活。少し前から、最終作で皇帝が帰ってくる、それもイアン・マクダーミドが同じ役で再演する、というのが話題になり、それで少しは先が読めた、と感じた方も多いでしょう。つまり、エピソード8であまりに唐突に訪れたファースト・オーダーの最高指導者スノークのあっけない死の意味について、です。本当のラスボスは皇帝で、スノークは傀儡に過ぎなかった、という設定はすぐに察しがつくことでした。

 

その他いろいろと消化不良、といわれたエピソード8ですが、本作を見てからだと、ああ、そういう背景があったのか、と見えてくるものがあるようです。

 

2016年末に60歳で急逝したキャリー・フィッシャーさんですが、本作でもたくさんの登場シーンがあって、驚かされます。つまり、レイア姫の登場すべきシーンは、すでにフィッシャーさんの生前(それもエピソード7の時点)にほとんど撮り終えていた、ということのようです。恐らくですが、エピソード8でどこまで話を進めるか、いろいろとプランがあったのでしょう。場合によっては、エピソード7あるいは8でレイアが絡むシーンを全て使ってしまう進行もあり得たのかもしれません。製作側が、フィッシャーさんの出演シーンについて、CGで無理やり追加映像を作る必要はないし、そもそもフィッシャーさんの急逝によって、レイアの登場シーンが減ることも、設定や脚本が大きく変わることもなく、当初からの予定通りに進行する、と発表していたのは、そういう事情だったのでしょう。

 

そうしてみると、エピソード8について、スノークの死と、ルークの退場以外、大筋の話が一向に進まない、といって批判されたのも、このへんに理由があったのかもしれません。つまり、エピソード9にレイアと息子カイロ・レンに絡む重要シーンをすべて回そう、という判断が働いた結果なのかな、と感じています。レイアが急にフォースをかなり使いこなせるような人物になっている点に違和感がある、という声もありました。これも、本作で描かれますが、前の戦役から後、レイアがルークから本格的な指導を受け、フォースに開眼していたという設定を知れば、なるほどと思われるところです。

 

【ストーリー】前作で最高指導者スノーク(アンディ・サーキス)を倒し、ファースト・オーダーの支配者となったカイロ・レン(アダム・ドライバー)ですが、スノークは単なる操り人形で、背後に黒幕がいた、という事実を知ります。祖父ダース・ベイダーの基地があったムスタファーで、フォースの暗黒面を信奉するシスの本拠地エクセゴルに到達するための道標となるウェイファインダーを手に入れたレンは、その地に赴いて、復活した皇帝パルパティーン(イアン・マクダーミド)と出会います。ファースト・オーダーの存在もスノークも、皇帝にとって単なる足がかりに過ぎなかった、という事実にレンはショックを受けます。さらに皇帝は、間もなく無敵艦隊ファイナル・オーダーを整備する最終局面にあると言い、レンが次代の皇帝になる手助けをしよう、と言います。しかしその条件として、レイ(デイジー・リドリー)を捜し出し、殺せと命じます。いぶかるレンに、皇帝は真相を告げます。「あれは、ただの小娘ではないのだ…」

 

その頃、ポー(オスカー・アイザック)とフィン(ジョン・ボイエガ)、チューバッカ(ヨーナス・スオタモ)たちは、シンタの炭鉱で協力者のブーリオに接触し、ファースト・オーダー軍の中にいるスパイからもたらされた最新情報を入手します。エイジャン・クロスでレイア・オーガナ将軍(キャリー・フィッシャー)の指導を受け、ジェダイの修業を積んでいたレイは、その情報に接して驚きます。皇帝が復活し、わずか16時間後には最後の決戦を挑んでくる、というのです。

 

レイを加えた一行は、かつてルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)がエクセゴルの所在地を探索するための旅を続けた結果、手がかりを失った終着点の星、パサーナに向かい、ランド・カルリジアン(ビリー・ディー・ウィリアムズ)と出会います。彼はかつて、ルークと共に探索をし、シスの暗殺者オチという人物の足取りを追っていた、と言います。オチの宇宙船は今でもパサーナの砂漠にある、と教えられた一行はそこに向かいます。そこに現れたのはカイロ・レンでした。敵の捕虜となったチューバッカが乗せられた輸送船を巡り、レンとレイはフォースを出しあい、目に見えない綱引きをしますが、レイの手から放たれた雷光が輸送船を破壊してしまいます。自分でも制御できない強大な力に、レイ本人は元より、周囲にいた人たちも呆然としてしまいます。

 

自分がチューバッカを死に追いやったのだ、と落ち込むレイをなだめ、ポーとフィンは探索を続けようとします。オチの宇宙船にあった古い短剣に謎を解くカギがあったのですが、短剣はレンが持ち去ってしまいました。短剣を見てデータを読み取ったC3-PO(アンソニー・ダニエルズ)の記憶だけが頼みの綱。しかし彼は、旧共和国の定めた規則による縛りがかかり、シスの言語を翻訳することが出来ません。

 

ポーはキジミに行き、C3のデータを取り出すことのできるドロイド修理屋バブーに会うことにします。すでに帝国軍の兵士でいっぱいのキジミで、かつてポーといい仲だったスパイスの密輸屋ゾーリ・ブリス(ケリー・ラッセル)の協力を得た一行は、バブーの店にたどり着きます。データを得るために、今までのメモリーをすべて消去することになったC3はためらいますが、犠牲を払うことを決意します。こうして得られたデータは、エンドア星系のケフ・バーにある第2デス・スターの残骸の位置を示していました。

 

ケフ・バーで、ファースト・オーダーからの脱走兵ジャナ(ナオミ・アッキー)たちの支援を受けて、デス・スターの廃墟に到達したレイは、皇帝の玉座の間でもう一つのウェイファインダーを見つけます。しかしここで、またもやカイロ・レンが姿を現したのです。一騎打ちのさなか、レンはレイが何者であるかについて、皇帝から聞いた真相を告げます。それは、レイにとって衝撃的なものでした。そしてレンは、一緒に皇帝を倒し、2人で手を携えてシスの玉座に上ろう、と提案するのです。レイが恐れているものは、結局、自分自身の正体でした。シスの女帝となる。それは彼女自身も見たことがある恐怖のビジョンだったのです…。【ストーリーここまで】

 

ということで、ここから後は物語の終幕を飾るにふさわしい、劇的な展開となっていきます。もはや泣いても笑ってもこれでおしまい、という最終盤。感動的な幕切れに向かってお話は一直線に加速していきます。なるほど、そういうことだったのか、と思わされること請け合いです。

 

最後に、レイはタトゥイーンで現地の人に名前を尋ねられて答えるのですが…。今まで、親に見捨てられて姓のない孤児として育ったレイにとっても、自分自身を知る旅が終わりを迎えたのですね。彼女はためらいなく、ある答えをします。この力強くも静謐なエンディングが美しいと感じました。

 

リアルタイムで一作目(エピソード4)からシリーズを体験してきた世代の私としましても、感動の幕切れだった、と思います。こうして一つの映画史に残るシリーズが40年以上の歳月をかけて終幕した、という感無量の思いも合わさり、本当に見てよかった、と思いました。

 

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2019年11月20日 (水)

【映画評 感想】ブライトバーン/恐怖の拡散者

Photo_20191120180001 「ブライトバーン/恐怖の拡散者」Brightburnという映画を見ました。ブライトバーンというのは、アメリカ・カンザス州の架空の地名です。ここで興味深いのは、あのスーパーマンの出身地、つまり宇宙人である彼が飛来し、育った土地が、同じカンザス州のスモールヴィルという町とされていることです。

 

この映画のタイトルが、あくまでも「ブライトバーン」であることが意味深いです。つまりこの映画の主人公は、他の誰でもなくブライトバーンという土地、あるいは状況そのものである、ということ。なぜ、ブライトバーンでは、スモールヴィルのようにはいかなかったのか? そんな意味が込められているのではないでしょうか。

 

ちなみにブライトバーンを略すればBB。本作の主人公ブランドン・ブレイヤーの頭文字もBBです。やはりブライトバーン=主人公、なのです。

 

スーパーマンにおいては、異星人である彼をクラーク・ケントとして育てたケント夫妻が、非常に徳が高く、素晴らしい人物だったことが重要でした。ジョナサン・ケントは息子クラークに早くから自分の特殊性について教え、将来を案じて「その力は隠さなければいけないよ。お前は特別な存在であり、人々はお前を恐れるだろう」と諭します。マーサ・ケントは「必要とされた時は、あなたの力を人々のために使いなさい」と言います。要するに、実はケント夫妻の器の大きさがスーパーマンを生んだのであって、単に彼が傑出した超能力を持っているだけでは、あのスーパーマンにはならないかもしれない。ひょっとしたら、超人的な能力を悪用したヴィランそのものになってもおかしくはなかった、という視点です。

 

スモールヴィルでは安定した人間関係に恵まれ、クラークは友人たちとの交わりの中で、地球人としての善良な心や、能力を隠して「うまくやっていく」方法を身に付けて行きました。しかし、町の人々、学校や級友たちとうまくいかなかったら、どうだったでしょうか。今回の作品ブライトバーンの主要なテーマは、ここにあります。

 

製作は「ガーディアンス・オブ・ギャラクシー」シリーズの監督ジェームズ・ガンで、脚本のブライアン・ガンとマーク・ガンはジェームズの弟と従弟という関係です。「ガーディアンズ…」のリーダー、ピーター・クィルも異星にルーツがありながら、地球で普通の地球人として苦労して育った、というキャラクターでした。こういう「かぐや姫」型の人物がひねくれてしまい、悪人として成長してしまったらどうなるのか、というところを追求してみたのが本作のテーマのようです。

 

【ストーリー】2006年のある日、カンザス州の田舎町ブライトバーンに何かが墜落します。長年、子供が生まれず悩んでいたトーリ(エリザベス・バンクス)とカイル(デヴィッド・デンマン)のブレイヤー夫妻は、墜落した異星からの宇宙船に、赤ん坊が乗っているのを見つけ、ブランドン(ジャクソン・A・ダン)と名付け、事実を隠して育てます。

 

12年が経過し、ブライトバーンの学校では一番の優等生として成長したブランドンですが、田舎の学校では浮いており、必ずしもうまくいっていません。そして、12歳の誕生パーティーで彼の奇行が始まります。叔母メリリー(メレディス・ハグナー)とその夫ノア(マット・ジョーンズ)を交えた席上で、12歳になったお祝いとして、ノアが一丁の猟銃をブランドンにプレゼントしますが、カイルは、まだ子供だから、と取り上げてしまいます。するとブランドンは激昂し、「それを渡せ!」と叫びます。それまで反抗したことがなかったブランドンの突然の急変に、トーリとカイルは驚愕します。

 

その夜、ブランドンは無意識のうちに納屋に行き、チェーンで厳重に閉ざされた地下室の扉をこじ開けようとします。そこには、カイルが隠した宇宙船の残骸がありました。

 

ブランドンの部屋で、女性の肉体、特に臓器の写真を見つけたトーリは、ブランドンに異常性があることに気付きますが、ブレイヤー夫婦はうまく息子を導くことが出来ません。むしろ程度の悪い性教育めいたことをカイルから示唆されたブランドンは、以前から彼が好意を寄せているクラスの女子ケイトリンに異常な執着を示すようになります。

 

学校の体育の授業で、ケイトリンから拒絶されて倒れたブランドンは、怒りにかられて彼女の手の骨を砕いてしまいます。学校から停学を申し渡され、警察沙汰になりそうな雲行きの中で、パニックに陥ったブランドンは嘘をつくようになり、徐々に凶暴性を発揮していきます…。【概要ここまで】

 

ブライトバーンの人間関係、両親と大人たちは、ブランドンをスーパーマンとして育てることはできませんでした。母親トーリは息子を溺愛していますが、どこか自分のエゴの延長としての猫かわいがりで、現実を見ない愛し方です。家族とのコミュニケートというと森に連れ出しての狩猟しか思いつかない父親カイルは、内心で息子を化け物として恐れており、距離を置こうとしているのが見え見えです。安易に子供に銃を与える幼稚な叔父、人当たりはいいけれど、実は形式主義で面倒なことが嫌いな叔母、意地の悪い級友…具体的ないじめの描写はありませんでしたが、ブランドンの口から、日常的にからかわれているらしいことが台詞として語られるシーンがあります。片想いの初恋の人にも理解されることはなく、ヘンタイ呼ばわりされます。そして、ありきたりの画一教育しかできない事なかれ主義の学校。みな、極端に悪い人たちではありませんが、かといって有徳の人たちでもなく、要するに平凡な田舎者ばかりです。しかし、おそらくケント夫妻こそがスーパーマンに見合ったスーパー・ペアレンツ(超人的な両親)なのであって、現実的には、ブライトバーンの人々はごく普通のレベルといっていいでしょう。

 

もちろん、そもそもエイリアンの母星が侵略的な目的でこの子供を送り込んできたようにも見受けられますので、周囲の努力ではどうにもならなかったのかもしれません。しかし、環境次第では、結論が変わったのかもしれません。そのあたりは明瞭に描かれていません。ただ、いずれにしても、他の人々と違い、両親は「息子の特殊性」を初めから知っていたわけで、それでああいう対処となって、事態にうろたえるばかり、というのは率直に言ってあまり有能な親とは言えないでしょう。

 

おそらくこの作品を見て、かなり人によって感想が違うのではないか、と思います。妙に身につまされる、という人もいるかもしれません。単なる中二病をこじらせたスーパーマンの亜流のお話、と思う人も多いかと思われます。「自分もブライトバーンで育ってしまった」と感じるような人は、作品の内容うんぬん以上に何か考えてしまうかもしれません。

 

SFホラー作品として見た場合、見せ場は十分に多いのですが、ホラーとしての怖さを求めて見る人には、あるいは意外に物足りないかもしれません。とにかく、これは見る人によってかなり受け取り方が変わるタイプの作品のように思われました。

 

目下のところ、興行収入は日本円で30億円超え、というところだそうですが、製作費も6億円前後と、かなり低予算の映画です。よって、大ヒットではなくても、商業的には立派な成功作となっています。とにかく、不思議に印象が強い持ち味の一作だと思いました。

 

 

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2019年11月12日 (火)

【映画評 感想】ターミネーター:ニュー・フェイト

Photo_20191112121001 「ターミネーター:ニュー・フェイト」Terminator: Dark Fateを見ました。フェイトは「運命」という意味ですので、原題は「暗い運命」、邦題は「新しい運命」となりますが、なかなかこの邦題のセンスがいい、という声が多いようです。重苦しい運命に押しつぶされるのか、それとも立ち向かうのか。映画を最後まで見たとき、「未来は変えられるかもしれない」という思いが勝るなら、ニュー・フェイトの方がふさわしい、と感じられるかもしれません。

 

「ターミネーター」シリーズは、これまで6作品が製作されてきました。しかし、生みの親であるジェームズ・キャメロンが関わったのは1991年公開の「ターミネーター2(T2)」まで。それから28年ぶりにキャメロンがシリーズに復帰し、35作目はなかったことにして(!)、T2の続編として作られたのが本作、という位置づけになります。よって、本作は6作目ですがT6とは呼ばれません。35作目が好きな人にとってはショックな展開ですが、そもそも本シリーズはタイムマシンによる歴史改変ものです。最初のターミネーターが過去に送り出されたときから、多くの時間軸が分岐したはず。すべての歴史が、可能性としてあり得た別の時間軸の物語である、と考えればいいのでしょう。

 

T3以後のシリーズも、個別の映画として見れば、なかなかいい作品だと思われるのですが、確かにジェームズ・キャメロンが携わったものとは何か違うのでした。キャメロン作品の特徴は、アクションでない部分、人物の描写やさりげない日常を描くシーンでの抒情性でしょう。ちょっとした演出が非常に利いているのですね。本作で実際にメガホンを執っているのは「デッドプール」のティム・ミラー監督ですが、作風にキャメロンらしさが反映されていることは確実に感じ取れます。

 

そして、何よりもキャメロンらしさといえば「強いヒロイン」です。T2のサラ・コナーは、やはりキャメロンが描いた「エイリアン2」のリプリーと並んで、強力な女性アクション・ヒーローの走りと言えるような存在でした。

 

T3以後のシリーズは、サラが早くに亡くなった後、息子ジョン・コナーを中心に描く流れとなりました。5作目の「新起動/ジェニシス」では、原点の1984年に回帰して、サラを新たな人物像として描き直そうという意欲作でしたが、好評は得られませんでした。そこで、現実の世界と同様、28年が経過した今、サラ・コナーが早く亡くなるのではなく、生きているとしたらどうなっているだろうか、という話に立ち返ったのが本作です。1984年にハンバーガーショップでバイトする能天気な女子大生だった彼女は、T2で描かれた1994年には、世界の運命を変える強靭さに満ちた闘士に変貌していました。そして、本作では元祖リンダ・ハミルトンが復帰し、60代になってなお激しいアクションに挑んでいます。

 

当然ながら今作は、描写のあちこちに、2作目までの名シーンを想起させるところが盛り込まれています。なんといっても極めつけは、サラが「また戻ってくるI’ll be back」と言うシーンですが、ほかにもターミネーターが大型トラックで追いかけてくるとか、工場のプレス機で押しつぶされるとか、大破したターミネーターが足を引きずってにじり寄ってくるとか、どこかで見たような状況が目白押しです。

 

新型のターミネーター(厳密に言えば、歴史が変わった未来から来た彼は「ターミネーター」とは呼べないようです)はREV-9といいます。T2でロバート・パトリックが演じたT-1000を彷彿とさせますが、最大の特徴は「人間的な魅力」にあふれていること。高度なAIを搭載した新型は、愛想がよくて気の利いたセリフを言い、たとえば金属探知機を通過しなければならない場面では「アフガンで負傷して、腰に弾丸が2発、入ったままなんだ」などと実にうまいことを言います。シュワルツェネッガーの初代T-800なら問答無用で撃ちまくるところでしょうが、新型は余計なトラブルを回避します。標的以外の人間はむやみに殺さない、というのは別に慈悲深いのではなくて、時間の無駄を省きたいからです。そのために「人間以上に人間らしく」ふるまいます。人の能力を超えるAIが現実のものとなっている現代では、1984年に描かれた殺人マシーンの描写とは全く異なってきています。

 

REV-9はインターネットを駆使し、あらゆるデバイスや監視カメラの情報を収集して、あっという間に標的を見つけ出します。2019年の今、彼は人探しに全く苦労しません。1984年のT-800は、電話帳を調べ、電話をかけまくり、「サラ・コナー」という名の女性をすでに2人、殺害した後に、ようやく標的にたどり着きます。その後も、サラとカイルが逃亡を図ると、追跡に大いに苦労しています。もし仮に、もっと古い時代、18世紀とか15世紀とかにターミネーターがやって来たとしても、サラ・コナーのご先祖を探し出すことは不可能かもしれません。

 

ラテン系のキャストが多く、アメリカとメキシコとの間の壁が物語の舞台になるなど、いかにも現代的なテーマも見られます。やはり今の時代の作品なのだと感じますね。さらに、若き日のサラ・コナーと、エドワード・ファーロングが演じたジョン・コナーが登場しますが、これらのシーンでは、最新技術で顔をすげかえています。今や、昔の姿だろうが故人の姿だろうが、なんでも再現できる技術があります。このへんも非常に興味深いです。

 

【ストーリー】1984年にT-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)の攻撃から辛うじて生き延び、1994年にはT-1000の攻撃をかわし、サイバーダイン社で開発が進んでいた軍事コンピューター「スカイネット」の誕生と、1997年に起こるはずだった核戦争「審判の日」を阻止して、歴史を変えたサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)と息子のジョン。しかし98年になり、この年代に送り込まれていた別のT-800から攻撃を受けたとき、悲劇が訪れます…。

 

20年以上が経過した現在。メキシコ市の自動車工場で働くダニー(ナタリア・レイエス)とディエゴ(ディエゴ・ボネータ)のラモス姉弟の職場に、父親が訪ねてきます。彼はダニーの姿を確認すると、突然、攻撃してきます。そこに現れた女性戦士グレイス(マッケンジー・デイビス)は、それが父親ではなく、未来からダニーの命を奪うために送り込まれた殺人マシーンであること、自分はその攻撃を阻止するために送り込まれた未来人であることを告げ、姉弟を連れて逃走を図ります。

 

殺人機械REV-9(ガブリエル・ルナ)の執拗な追跡を受け、ついにダニーとグレイスは追い詰められますが、そこに初老の女性が姿を現し、2人を助けます。その女性、サラ・コナーは、謎の人物からの情報を受けて、現場にやって来たと言います。情報はテキサスのある地点から発信されており、グレイスが未来で受けた指令でも、同じ地点に向かうように指示されていました。

 

グレイスがいた未来にはスカイネットは存在せず、代わって「リージョン」という名の軍事AIネット・システムが存在し、人類が機械と対決する暗いものとなっています。サラは歴史を変えたのですが、結論はあまり変わらない「暗い運命」だったのです。その世界の未来を担うキーパーソンがダニーであり、REV-9は彼女の命を奪うために送り込まれました。サラは、ダニーが1984年の自分と同じ立場にあることを知り、見過ごせないと感じます。

 

ダニーの叔父の手引きにより、メキシコから国境を越えてアメリカに向かった一行ですが、そこにはすでに国境警備隊員の中に紛れ込んだREV-9 の姿がありました。その場を何とか逃れて問題の地点にたどり着くと、意外な人物が待ち構えていました。それは、1998年に襲ってきたあのT-800の年老いた姿でした…。【要約ここまで】

 

3人のヒロインのキャラが非常に立っています。リンダ・ハミルトンの奮闘ぶりは言うまでもありません。グレイス役のマッケンジー・デイビスは「ブレードランナー 2049」で有名になった女優ですが、今回は超人的な戦士という役柄を全力でこなし、新境地を開拓しています。ここから評価が上がって来そうですね。ダニー役のナタリア・レイエスは、ほぼ無名の新人といっていいですが、オーディションでリンダ・ハミルトンが惚れ込んで彼女に決めた、というだけあって、初めての大役とは思えない堂々たるメイン・キャストぶりです。

 

このシリーズのアイコンであるシュワルツェネッガーからは、「もうこれで最後にしたい」という発言もあったようですが、どうなのでしょうか? この新シリーズは、当初の計画としては、三部作として構想されているといいます。普通に考えますと、スカイネットが支配する未来がなくなったのだから、サイバーダイン型T-800も今後は登場しない、というのが順当な考え方かもしれませんが、まあSF作品ですから、どのような展開もあり得ると思われます。

 

AIの実用化が現実のものとなり、この作品が1984年に訴えた内容が、甚だ切迫したものに思えるようになった今こそ、ターミネーター・シリーズは必要とされるものになってきたように感じます。もはや遠い未来の絵空事ではないのですね。キャメロン氏は「アバター」シリーズでお忙しいと思いますが、ぜひご本人の出世作である本作も続けて関わってほしい、と切に思います。

 

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2019年10月26日 (土)

【映画評 感想】マレフィセント2

Photo_20191026131901 映画「マレフィセント2Maleficent: Mistress of Evilを見ました。アンジェリーナ・ジョリー主演で、名作アニメ「眠れる森の美女」(1959年)に登場する魔女、マレフィセントを主人公にしたヒット作「マレフィセント」(2014年)の続編となります。

 

「マレフィセント」は典型的な「おとぎ話」だったオリジナルの話をひねりにひねって、現代的な作風にしたことでヒットしました。王子様のキスで眠れる美女が目を覚まし、めでたし、めでたし、という直球勝負をそのまま実写化しても、現代の映画としてもたない、という判断があったのは間違いないでしょう。そこで、ディズニー・ヴィランの中でも名高いマレフィセントを主人公に据え、あちら側から見た映画にした斬新さが最大の特徴でした。

 

しかしオリジナルの世界観が好きな人から見ると、ディズニー映画の割に、あまりにダークな内容と、「それで終わっていいの?」という感じの落ちに違和感を覚えるものでもありました。オリジナル版では、娘思いの父親だったオーロラ姫の父、ステファン王が、成り上がり者の極悪人に成り果てていたのは、良くも悪くも印象的でした。この作品の後、ディズニーの実写化作品は、現代版の実写映画として必要なアレンジを加えるにしても、出来るだけオリジナルの作風や設定に忠実な路線のものが増えていったように思います。

 

今作では、ジョリーのほかに、オーロラ役のエル・ファニングも続投しております。監督は「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」で敏腕を発揮したヨアヒム・ローニングが務めることになり、作風も変化が見られたようです。前作よりバランスがよくなったのではないでしょうか。オリジナル版を意識的に再現している演出もあちこちに見られ、最後は「めでたし、めでたし」というカタルシスに向かう、という意図が感じられます。

 

そして何より、描写としては「戦争映画」といってよいものになっています。スケールの大きい戦闘シーン、人種差別問題や環境問題を想起させる「人間と妖精との戦い」というテーマ性が際立ちます。後半になると、まるでナチス強制収容所のツィクロンBを使ったユダヤ人虐殺を想起させるようなシーンもあります。

 

本作で真のヴィランを務めているのは、ミシェル・ファイファー演じるイングリス王妃という人物ですが、この人にもこの人なりの背景があり、単なる性格異常者、悪人として済ませていない点が、興味深いところです。ファイファー自身も単なる悪人ではなく、もっと複雑な、国政の重責を負う為政者として演じたそうです。

 

【ストーリー】前作で狂気にかられたステファン王を退け、オーロラ姫(ファニング)を我が子のように育てることとなったマレフィセント(ジョリー)。ところが込み入った事情は忘れ去られ、世間の人々は恐ろしい魔女が糸車の針で美女に呪いをかけた、ということだけを語り伝えるようになりました。オーロラは成人し、妖精たちが暮らすムーア国の女王となり、マレフィセントはオーロラの守護者、後見役として、一歩退くようになっています。

 

そんな中、ムーアと国境を接するアルステッド王国のフィリップ王子(ハリス・ディキンソン)が訪れます。彼は5年前の騒動で、オーロラに一目ぼれしてキスをしたものの彼女は目覚めず、それからはなんとなく距離を置いた関係が続いていました。しかし、この日の彼はオーロラにプロポーズし、内心ではフィリップを好ましく思っていたオーロラも喜んで受け入れます。

 

人間の王子との結婚、という話をカラスのディアヴァル(サム・ライリー)から聞いて不機嫌になったマレフィセントですが、愛するオーロラの願いを聞き入れ、アルステッド国王夫妻の招待を不承不承ながら受けることにします。

 

フィリップの父、ジョン王(ロバート・リンゼイ)は戦争を嫌う好人物で、フィリップの婚約を心から喜びます。しかし軍部を率いるパーシヴァル将軍(デヴィッド・ジャーシー)はマレフィセントを毛嫌いしており、さらに王妃のイングリス(ファイファー)は腹に一物ある様子。祝宴の席で、王妃はマレフィセントを挑発するような言動を繰り返し、ついに怒らせてしまいます。怒りを爆発させたマレフィセントはアルステッド城から逃げ出す途中、王妃の腹心ゲルダ(ジェン・マーリー)の放った鉄製の弾丸を受けて墜落。一方、ジョン王は意識を失って倒れ、マレフィセントの呪いを受けたためと思われました。オーロラの心は婚儀を台無しにしたマレフィセントから離れ、イングリスの指示に従うようになります。

 

海に落ちて気絶したマレフィセントは、同じ闇の妖精のリーダーであるコナル(キウェテル・イジョフォー)に助け出されます。彼が案内した妖精の島には、世界中から人間の迫害を逃れてきた闇の妖精たちが集まっており、人間と平和的な共存を望むコナルたちと、徹底抗戦を叫ぶボーラ(エド・スクライン)たちの間で意見が割れていました。ここに、強大な戦闘力を持つマレフィセントが現れたことで、不穏な空気が流れ始めます。

 

同じころ、王妃の行動に不信感を覚え始めたオーロラは、城の地下室に幽閉されている妖精リックスピットル(ワーウィック・デイヴィス)が恐ろしい研究を続けていることを知り、愕然としますが…。【ストーリーここまで】

 

ということで、緊張はどんどん高まって、終盤はアルステッドの軍隊と、妖精たちとの戦争状態に突入していくことになります。目を見張る映像美は素晴らしく、雄大な城塞を舞台として、スケールの大きな戦闘シーンが次々に展開していきます。

 

主演級の人たちは、皆、実力通りの好演をみせています。善人も悪人も見事に演じ分けるミシェル・ファイファーは今作でも存在感十分です。それから、フィリップ王子役のディキンソンの好青年ぶりが目立ちましたが、彼は今、伸び盛りの若手で、来年公開の「キングスマン」シリーズの新作「キングスマン: ファースト・エージェント」では主演に抜擢されたそうです。

 

ボーラ役のエド・スクラインは「デッドプール」の悪役フランシスや、「アリータ:バトル・エンジェル」の悪役ザパンで知られる人。今作でもちょっと凶悪な雰囲気ですが、役どころは全く違います。また、ゲルダ役のジェン・マーリーという女優さんの印象が強いので、どういう人かと思えば「ファンタスティック・ビースト」で悪役クリーデンスの妹の養女という脇役ながら、注目された人でした。今後、活躍が期待されそうな個性派です。

 

話の流れから見ると、一応、このシリーズはこれで完結していると思われますが、アンジェリーナ・ジョリーの近年の当たり役となったマレフィセント、まだスピンオフ的な作品も出来るかもしれません。丁寧に作り込まれた美術や衣装が素晴らしく、映画館の大画面でディテールを見たい一本です。

 

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2019年10月10日 (木)

【映画評 感想】ジョン・ウィック:パラベラム

Photo_20191010133601 「ジョン・ウィック:パラベラム」John Wick: Chapter 3 – Parabellumを見ました。キアヌ・リーブス主演の人気シリーズ3作目です。1作目でロシア・マフィアを77人殺し、2作目ではイタリアの犯罪組織カモッラのメンバーを128人殺したジョン・ウィック。ところが本作では94人、と少しおとなしくなった(?)印象もあります。

 

監督、スタッフ、主要な出演者が変わらないので、大きな変化はないはずですが、なんとなく2作目まで濃厚に漂っていた物悲しさ、哀愁を帯びたジョン・ウィックではなくなってきている感じがあります。ヒット・シリーズになって予算も大きくなり、ゴージャスな映画になってきた分、何か普通のアクション大作になってきている、と思うのは私だけでしょうか。もちろん非常に面白い作品だと思うのですが、ちょっと個性が薄れてきているようにも感じます。舞台がカサブランカに移ったり、著名なアカデミー女優がどんどん出てきたり、ということで、見ようによっては、寡黙な007のような雰囲気すら出てきています。

 

本作で目立つのが、日本の「任侠映画」のようなノリです。というか、明らかに影響を受けているのではないでしょうか? 指を詰めてボスに詫びを入れるとか、終盤は銃器ではなく長ドスでの果し合いになる、とか。非情な組織の論理に刃向って、はぐれ者のヤクザが敢然と巨大な勢力に立ち向かう、といった構図は往年の日本のヤクザ映画そのものに見えます。

 

何しろ今回の作品でジョンの最強の敵となるのが、日本人(あるいは日系人)寿司職人を表稼業としている殺し屋ゼロ、という人物。きゃりーぱみゅぱみゅの曲が流れるニューヨークの寿司店で、巧みな包丁さばきを披露する職人であり、実は殺しの達人でもある、という設定です。演じているマーク・ダカスコスは4分の1が日本人という俳優さんで、他の映画では流暢な日本語を話すシーンもあったそうです。しかし、今回の彼は、日本語を叫ぶ場面がしばしばあるのですが、ほとんど聞き取れないぐらいに下手くそです。本作では、そのへんは全く気を使っていないようです。おそらく英語圏などの観客は気にならないでしょうが、日本人としては、かなり興ざめです。せっかく日本をフィーチャーした内容なのに(どうもこのあたりの設定は、親日家であるキアヌのアイデアらしいですが)、あまり丁寧な描き方とは言えず、残念ですね。

 

ところで題名の「パラベラム」とは、一般に9ミリ口径の銃弾の名称として知られています。ドイツの有名な自動拳銃「ルガー」の設計者ゲオルク・ルガーが1901年に開発したもので、その後、もっともポピュラーな自動拳銃や短機関銃の銃弾として広く使用されています。パラベラムの名はラテン語の「Si Vis Pacem, Para Bellum」(平和を望むならば、戦いに備えよ)に由来しています。この銃弾の登場で、量産が容易になり、また銃の自動化が飛躍的に進んだ、とされます。パラベラム弾の普及が、結果的に効率的な軍備を促進し、戦争を抑止して平和をもたらす、と期待されたための命名でしょうが、実際には、20世紀の戦争が大変、悲惨で残酷なものになったのは言うまでもありません。

 

今回の劇中で、ホテルの支配人を演じているイアン・マクシェーンが、血みどろの激戦を予感しながら、上記の皮肉なことわざ「平和を望むならば、戦いに備えよ=パラベラム」と呟きます。ここは大変、印象的でした。

 

【◆ストーリー】亡き妻との死別を経て、悲しみに暮れる間もなく、ロシア・マフィアの挑発を受けて、組織を皆殺しの憂き目に遭わせ、完全に壊滅させたジョン・ウィック(リーブス)。続いて、今度はイタリア・カモッラの幹部ダントニオに無理強いされ、殺しの現場に復帰させられた挙句、罠にはめられました。怒りに燃えたジョンは、夥しい数の敵を殺してカモッラを壊滅寸前まで追い詰め、ついにダントニオを殺害しました。ここまでが前作。

 

しかし、世界中の巨大な闇組織を代表する12人の主席で構成される「主席連合(ハイ・テーブル)」のメンバーだったダントニオを殺したこと。さらに、その殺害した場所が、この世界の住人にとっては絶対の中立地帯、聖域として認識されてきたコンチネンタル・ホテルの敷地内であったこと。絶対に犯してはならない禁忌を二つも犯したジョンは追放処分となりますが、ホテルの支配人ウィンストン(マクシェーン)の温情により、1時間だけ猶予を与えられます。時間が切れた瞬間から、世界中の殺し屋が敵にまわり、ジョンの首にかかった1400万ドルの賞金を得るために襲いかかってきます。

 

ジョンは、なんとか包囲網を切り抜け、かつて自分を育てたベラルーシ系の闇組織、ルスカ・ロマを率いる女ボス(アンジェリカ・ヒューストン)に直談判し、その助力を得て、北アフリカはモロッコのカサブランカに旅立ちます。

 

その頃、主席連合が派遣した冷酷な監督官、「裁定人」(エイジア・ケイト・ディロン)は、謀反人ジョン・ウィックに協力した者たちに厳罰を言い渡して回ります。ジョンに1時間の猶予を与えたウィンストンは7日後にホテル支配人を退任すること。また、ジョンのダントニオ殺しをほう助したとして、主席連合とは本来、かかわりのない組織バワリーを支配しているボス、キング(ローレンス・フィッシュバーン)にまで、7日後の退任を申し渡しますが、キングはせせら笑って拒否します。

 

裁定人は、主席連合が推薦する最強の殺し屋ゼロ(ダカスコス)に、ジョンと、ジョンの協力者を粛清する任務を与えます。ジョンをアフリカに渡航させたルスカ・ロマのボスは、ゼロの手により残酷な見せしめの対象となります。キングもゼロの刃を受けて、倒れます。

 

一方、モロッコに渡ったジョンは、彼とは古い因縁のある凄腕の女殺し屋ソフィア(ハル・ベリー)と接触。彼女の手引きで主席連合の古参幹部であるベラーダ(ジェローム・フリン)と会い、さらに、サハラ砂漠の奥深くにまで向かっていきます。ジョンは、主席連合よりも上位に君臨している世界の闇組織の真の頂点、秘密の首長(サイード・タグマウイ)に会って、事態を打開しようと考えるのですが…。◆

 

というような展開で、お話はどんどん大きく広がっていき、多彩な人物が次々に登場し、良くも悪くもゴージャスなアクション大作となっております。しかしどうも、ゴージャスに風呂敷を広げた結果、それこそ昔の007シリーズのような荒唐無稽さに近付いてきている印象もある、と個人的には思いました。興行的には大成功しており、次回作の製作はもちろん、テレビ版やゲーム版、さらにはハル・ベリーを主演に据えた女殺し屋ソフィア中心のスピンオフ計画も出てきているとかで、ジョン・ウィック・ワールドの前途は洋々たるもの。しかし、1作目から見ている者からすると、安定した王道娯楽路線からは、ちょっと初めの頃の緊迫感が感じられない、という点は否めないものがあります。

 

1作目、2作目のジョン・ウィックは、強いとは言っても、いつ命を落とすか分からない危うさを感じさせました。実際、そういうフィルム・ノワール的なストーリー展開になってもなんら、不思議ではない作風でした。しかし、売れるドル箱映画として人気が定着して来ると、ジョン・ウィックは、もはや死ねなくなります。なんというか、ジェームズ・ボンドもそうですし、ヒーローものの映画もそうですが、何があっても多分、主人公は死なない、という感じになり、ターミネーターのように見えてきます。車にひかれても、刺されても、ビルから突き落とされても死なない、無敵の人物像が定着してしまうと、どんなに激しいアクションを見せられても、スリルは感じなくなってくるものです。

 

それにしてもです。1作目から3作目まで、劇中で流れた時間はごく短く、せいぜい数か月の物語だと思います。この間に299人を殺戮し、いくつもの大きな犯罪組織を根絶やしにしてきた超人ジョン・ウィックに対して、たかだか1400万ドル(劇中で増額して1500万ドル)、日本円にして15億~16億円ぐらいの賞金で、よく襲い掛かる馬鹿な殺し屋がたくさんいるものだな、と思います。もちろん大金ではありますが、絶対に勝てそうもないほど強い相手に挑みかかるとき、お金などいくらあっても意味はなく、99分以上の確率で自分が死ぬリスクを冒すには、16億円程度など、はした金のうちではないでしょうか? 

 

と、若干の不安要素を感じつつも、次回作はどうなるのか、気になってしまうエンディングで、逆らい難い期待が膨らむのも事実です。ジョン・ウィックの最後の頂上決戦はいつになるのか。どこまで殺るのか。本当に世界中の犯罪組織を、文字通り皆殺しにするまで戦い続けるのだろうか。そのへんが気になってきました。やはり、巧妙な展開のシリーズですね。

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2019年9月 3日 (火)

【映画評 感想】トールキン 旅のはじまり

Photo_20190903113401 「トールキン 旅のはじまり」Tolkienを見ました。あの「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」や「ホビット」の原作者JRR・トールキンの青春時代を描く映画です。トールキン自身は「作家作品研究」的なアプローチは好きではなかったようで、作者の人生をいくら調べても、文学作品とは無関係である、という立場の人だったようですが、しかし、トールキンの作品を読み、あるいはピーター・ジャクソン監督によって映画化された6部作を見れば、明らかに二つの世界大戦の影がちらついています。特に、トールキンが実際に従軍した第一次大戦の塹壕戦の悲惨な光景が、悪の帝国モルドールの描写に重なることは間違いないところでしょう。フロドに献身的に仕えるサム・ギャムジーのモデルが、陸軍の忠実な兵士たちであったことは、トールキン本人も明言しています。また、悪の帝王サウロンが徐々に支配を伸ばしていく点では、ヒトラーがモデルになっていると言われています。

 

本作の展開を厳密にみるならば、トールキンの伝記を正確にトレースしているわけではないようです。たとえば、年譜的には、トールキンが最愛の人エディス・ブラットと出会い、夢中になった後で、フランシス・モーガン神父の勧告により離別したのは1910年のこと。キング・エドワード校の学友4人で、劇中にも登場する秘密クラブ「T.C.B.S」を結成するのは1911年であり、前後関係としては劇中の展開と一致しません。

 

また、戦争中の描き方にしても、史実通りとはかなり相違するように思われます(この点は後で詳述します)。要するに、正確なドキュメンタリーのような伝記映画を作ったのではなくて、トールキンのその後の創作にいかに彼の前半生が関わっているか、という点をクローズアップしたところが、非常に興味深い作品となっています。

 

セアホール・ミルの美しい田舎の田園風景が、後のホビット庄につながり、バーミンガムの工場地帯の黒々としつつ赤い溶鉱炉が燃える景色は、モルドールや、イセンガルドの軍事施設を思わせます。そしてソンムの戦場は、フロドとサムがさまようモルドールから滅びの山への果てしなく続く荒涼地のモデルであることは言うまでもありません。このあたりを視覚的に一目瞭然に描き出してくれるのは、映画という表現ならではです。

 

また、言語学の天才であったトールキンは、エルフ語やモルドール語、ローハン語などの新しい言語を創作し、その裏付けとなる物語大系を築いて行ったわけですが、その言語へのこだわりが、いかに彼の若き日々の生活の中心であったか、という描写も重要です。こうしたトールキンの人生こそが「旅のはじまり」であり、やがてビルボ・バギンズの旅立ちにつながるのだ、という視点が明確です。

 

そのため、第一次大戦の激戦地、ソンムの戦場でさまようトールキンが、子供時代、学生時代の思い出を走馬灯のように想起する、という構成になっていますが、これが効果的です。後のスマウグ、ガンダルフやサウロンらしき幻影が登場するシーンがあるのですが、やっぱりドキドキしますね。

 

あらすじ◆南アフリカで父親が死んだことにより、ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(少年:ハリー・ギルビー/青年:ニコラス・ホルト)の一家は、住み慣れたセアホール・ミルの田舎から、バーミンガムに引っ越すことになります。貧しい生活の中、母親はロナルドに、現実を離れたファンタジーの魅力を伝えます。しかしまもなく母も病死し、遺されたロナルドは、弟と共に母の友人のモーガン神父(コルム・ミーニイ)の後見を受けることになり、フォークナー夫人の屋敷に下宿して、地元の名門校キング・エドワード校に通うことになります。同じ下宿にはピアニストの少女エディス(リリー・コリンズ)がおり、二人はすぐに恋に落ちます。

 

ロナルドは、学校で知り合った仲間たち、校長の息子で画家になりたいロバート(アルビー・マーバー/パトリック・ギブソン)、詩人志望のジェフリー(アダム・ブレグマン/アンソニー・ボイル)、作曲家を目指すクリストファー(タイ・テナント/トム・グリン=カーニー)と意気投合し、芸術で世界を変える秘密結社、ティー・クラブ・バロヴィアン・ソサエティ(T.C.B.S)を結成し、青春を謳歌します。

 

その後、ロナルドは学業不振に陥り、オックスフォード大の受験に失敗。神父はエディスとの交際を禁止します。再試験で進学は出来たのですが、古典文学を専攻したものの伸び悩み、退学寸前にまで追い込まれます。さらに追い打ちをかけるように、エディスが他の男性と婚約した、という知らせが入り、彼を打ちのめします。そんな中、ふとした出会いから言語学の重鎮ライト教授(デレク・ジャコビ)と知り合い、自分のやるべきは言語学であることを悟り、教授の門下に入ることを許されます。充実した学生生活を手に入れたロナルドですが、1914年、イギリスはドイツとの戦争に踏み切り、第一次世界大戦に参戦します。ロナルドを始め、「T.C.B.S」のメンバーは皆、軍に入隊して初級士官として戦場に赴くことになりますが、ロナルドを待ち受けていたのは、最悪の激戦地、ソンムの戦場でした…。◆

 

ということで、なんといっても目を引くのがリリー・コリンズ。あの「ジェネシス」のドラマー、フィル・コリンズのお嬢さんですが、もともと、かなり太い眉毛の持ち主。ところが本物のエディス・トールキン夫人という人が、すごく濃い眉毛の人なので、ドメ・カルコスキ監督が「とにかく見た目がそっくり」と思ったそうです。エディス夫人は父親が公表されない私生児として生まれ、劇中でも言及されますが、もともとは聖公会の信者で、トールキンとの結婚に当たり、カトリックに改宗しています。彼女はまた、エルフの王女であり、定命の人間ベレンに嫁いだことで、不死の身から死ぬ運命になったルシエンのモデルとなったといいます。だから、エディスの墓石にはルシエン、トールキンの墓石にはベレンの名が刻んであるそうです。また、ルシエンの子孫であるアルウェンは、ルシエンの再来と言われるほど似ており、人間の王アラゴルンと結ばれることで、同じ運命をたどった、とされています。

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ニコラス・ホルトはじめ4人の青年たち、それから、それぞれの子役4人も非常にいい感じで、途中の「世代交代」も違和感がなく、見事です。トム・グリン=カーニーは「ダンケルク」の少年兵役で主演した人ですね。旧「スター・トレック」シリーズで有名なベテラン、コルム・ミーニイや、「オリエント急行殺人事件」の執事、「シンデレラ」の国王などの名演が記憶に新しい重鎮デレク・ジャコビの渋い演技も光ります。その他、隅々に至るまでキャスティングがよく考えられています。

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こういう史劇の場合、コスチュームも大事ですが、エドワード朝の重々しいフロックコートやスーツに、まだスカーフ状の柔らかいネクタイ、あるいはロングドレスに大きな帽子、といったスタイルが、徐々にモダンになって行って、戦後の1920年代のシーンでは、男女ともにすっかり現代的な服装になっているのが見ものです。このあたりの服飾史的な考証も、しっかりされています。本作では非常に重要な、第一次大戦当時の軍装という点でも、ぬかりなく、兵士たちは1902年型の詰め襟のカーキ色軍服、将校たちは1914年モデルの開襟軍服を着用しています(当時、ネクタイを締める軍服は世界でも最新式のものでした)。ただし、ソンムの会戦(1916年)頃ということですと、実際には将校の階級章や徽章は、まだ肩章に付けていない時期だと思われ(初期の階級は袖口で示すもので、公式に肩に徽章を付けてよくなるのは1917年のこと。今に残るトールキン少尉の写真でも、肩章には何も徽章は付けていません)、この点では、本作の将校たちは初めから肩章に徽章を付けているようでしたが、このあたりはどうなのでしょうか。もっとも、実際には公式な通達の以前から、実用上の便利さを考えて、肩に徽章を付けることはあったようです。

Tolkien

ところで、映画上の展開は劇場でご覧いただくとして、史実でのトールキン少尉の戦歴は以下のようになります。彼はランカシャー・フュージリア連隊の第11大隊の通信士官として従軍しました。モールス信号や野戦電話の担当で、比較的、後方勤務と言えます。同連隊は平時には2個大隊があるだけでしたが、戦時の急速拡大で基幹3個大隊となり、補充兵で8個大隊に、さらに終戦までに20個大隊まで規模を拡大して、戦場に将兵を送りました。トールキンは1915年に入隊しています。この時代に、彼は後の「シルマリルの物語」(指輪物語の世界の創世記に当たる部分)を書きはじめています。

 

19166月にソンムに展開した同大隊は、714日にオーヴィレル近郊の激戦で早くも壊滅状態となり、トールキン少尉も10月には「塹壕熱」(シラミから感染する病気)が発症して後送となり、119日にはバーミンガムの病院に入りました。その病院で、トールキンは「T.C.B.S」の仲間、ジェフリー・スミス中尉から、同じく仲間であるロバート・ギルソン中尉の戦死を知らせる手紙を受け取っています。しかしその手紙が届いた時には、すでにジェフリーもこの世になかった模様で、トールキンと同じ連隊の第19大隊に属していた同中尉は、123日に戦死しています。その後、第11大隊は完全に壊滅しますが、トールキンは体調が回復せずに、前線に戻ることはなく、中尉昇進を待たずに除隊となりました。

 

以上のような戦歴から見ると、映画上の展開はかなり異なっているように思われます。しかし、このあたりは映画表現として理解するべきところです。

 

第一次大戦後、オックスフォード大の教授となったトールキンは、若き日の「T.C.B.S」のよき思い出がそうさせるのか、文芸サークル「インクリングス」に参加し、友人たちから刺激を受ける中で創作をしていきます。その際の仲間には、やはりオックスフォード大の研究者だったCS・ルイスがおり、この二人が競うように創作に励んで、トールキンが「ホビット」を、ルイスが「ナルニア国物語」を生み出したのは、よく知られているところです。ルイスの方は、アンソニー・ホプキンス主演の「永遠の愛に生きて」で、「ナルニア国」より前に本人をテーマにした映画化がされているわけですが、これまでトールキン本人を描く映画がなかったのは、むしろ意外な感じもあります。これは、トールキンがあまり自分自身のことを公表したがらない作家だったことが原因だと思われます。名門大学の教授だったことは知られていても、早くして両親を失い、非常に苦学して大成した、という事実を知らなかった方も多いのではないでしょうか。

 

今回の映画は、あまり一般には知られていなかった「T.C.B.S」の活動を知らしめたという点で、非常に意味のある一作だったと思います。彼らなくして、後のトールキンは絶対にないのであり、若くして才能ある人たちが命を散らしていった中で、彼らの遺志がトールキンの中にあって開花したのだ、と信じたいですね。非常に美しい、感動的な一作でした。

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2019年8月14日 (水)

【映画評 感想】ライオン・キング

「ライオン・キング」The Lion Kingを見ました。ジョン・ファヴロー監督の手腕が光る一作です。1994年のアニメ版を完全実写化、ということですが、実写と言ってもフルCGですので、「シンデレラ」や「美女と野獣」「アラジン」の時のような「実写化」なのかというと、違う感じもします。監督自身も「アニメの実写化なのか、といわれると違うような気がします」というコメントをしていました。いうならば超CGアニメ化、なのでしょうが、しかしもはやCGアニメ、などという域ではありません。リアルな自然にリアルな動物が動いているようにしか見えない。完成度の高さはまさに衝撃的です。

 

技術的に言えば、要するに、もう本当に何でも表現出来るのだ、監督がその気になりさえすれば、視覚化できない映像などないのだ、ということが決定的に突きつけられた作品だと思います。「映像化は不可能」という言葉は死語になったのでしょう。逆に言えば、作品の出来、不出来は監督・スタッフの才能や努力の不足に帰結する、という厳しい時代になったともいえます。誰もが原作を知っていて、誰もが批評家になれるディズニー名作アニメで、その到達点を示す試みに挑んだ監督の勇気に、拍手を送りたいと思います。

 

ファヴロー監督と言えば、なんといっても2008年以来、「アイアンマン」シリーズを成功させ、その後のマーベル「アベンジャーズ」シリーズを軌道に乗せた立役者です。俳優としても有名で、つい最近の「スパイダーマン」新作や「スター・ウォーズ」のスピンオフ「ハン・ソロ」にも出演していました。SFヒーローものばかりでなく、数年前に世界を驚かせた「ジャングル・ブック」で、自然描写や、毛が多い動物を描くにも最新技術が活用できることを世に知らしめました。この人がいてこそ、今回の作品が生まれたのだと思います。

 

今回の映画で、実は冒頭の部分、アフリカの朝の大地に、大きな太陽が昇るシーンがありますが、あそこだけが唯一、本当にアフリカで自然を撮影したショットだそうです。それ以外は、ケニアで撮影した100万枚に及ぶ情景をデータ化し、ライオンの国「プライド・ランド」を作り上げて、監督たちはそのデータで築かれた仮想のアフリカで、普通の映画を手持ちカメラで撮るように撮影したのだそうです。つまり、完璧に出来上がった架空の世界の中を自由に移動できる、近年のフルCGのテレビゲームがありますが、ああいう感じで撮影したわけです。だから、見ていて感じるのは、よく英BBCなどが製作する、動物の生態を追う素晴らしいドキュメンタリーがありますが、ああいう感じの仕上がりです。だから、よくCGものでありがちな、いかにも都合のいい角度で絵を設計しました、作り込みました、という静止的な感じにならず、自然にカメラワークがパンして乱れたり、前景と遠景が切り替わったりします。こういう手法が画期的だった、と思います。

 

そういうことなので、今回の動物の描写は、アニメ版でみられた擬人化は抑えて、実在するライオンやイノシシがみせる動きを基準にし、いわゆる動物もの映画のような作法で再構成されています。たとえば、オリジナルでは両手を広げて人間のエンターテイナーのように踊りまくるミーアキャットのティモンですが、本物のミーアキャットは前足を横に広げることはなく、棒立ちですので、そこを考慮した動きにする、という感じです。ライオンやハイエナも、目と微妙な表情で個性と感情を描写しつつ、おおげさに泣いたり笑ったりはしません。ヒヒの長老ラフィキは、オリジナルではほとんど人間の老人のように描かれていましたが、本作では、最後の決戦で杖を使うものの、それもとっておきの最終兵器のような扱いで、カンフーを操って戦ったりはしません。このあたりについては、オリジナルとの比較という観点から、人によって好き嫌いや評価が変わってくるかもしれません。

 

一方で、ストーリー展開は基本的にオリジナルのまま。セリフの内容も、上記のような「リアル動物化」に合わせて微妙に変わっていますが、極力、昔のままです。音楽はエルトン・ジョンが手がけた名曲がすべて使用されるほか、ビヨンセらが作った新曲も加わります。余計なひねりを入れず、誰もが知る「ライオン・キング」のままなので、安心して見ていられます。そのなかで、終盤の決戦シーン、ティモンとプンバァがハイエナをおびき寄せる場面で、「美女と野獣」の「ひとりぼっちの晩餐会」を引用する遊び心が光っていました。

 

◆あらすじ アフリカの大地で野生の王国「プライド・ランド」を治めるライオンの国王ムファサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)とサラビ(アルフレ・ウッダード)の間に生まれた世継ぎ、シンバ(ドナルド・グローヴァー)。両親の愛を一身に受け、幼なじみのナラ(ビヨンセ)と一緒にすくすくと成長し、家老のザズー(ジョン・オリヴァー)が手を焼くほど元気に成長します。しかし、親子を妬むムファサの弟スカー(キウェテル・イジョフォー)は、ハイエナたちと手を組んでヌーの群れの暴走を引き起こし、ムファサを亡き者にして、シンバを王国から追放してしまいます。王国を見守ってきた長老ラフィキ(ジョン・カニ)はシンバが死んだものと思い、ひどく落胆します。

 

気落ちして倒れていたシンバを、ミーアキャットのティモン(ビリー・アイクナー)とイボイノシシのプンバァ(セス・ローゲン)が助け、仲間として育てます。彼らから「ハクナ・マタタ」精神を教えられ、過去を棄てて楽しく暮らすことを覚えたシンバですが、そこに現れたのは大人に成長したナラでした。王位を継いだスカーがハイエナたちと組んで暴政をしき、王国は滅亡寸前だと聞いて心が揺らぐシンバですが、父王の死の原因は自分にある、という思いが彼の心を曇らせます。その頃、シンバが生きていることを知ったラフィキがやって来て…。◆

 

ということで、全くおなじみのストーリー展開。嬉しいのはムファサの声が、オリジナルに引き続いてジェームズ・アール・ジョーンズという点です。日本語吹き替え版も、オリジナルと同じ大和田伸也さんがアテているそうです。ジョーンズと言えば、なんといっても「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーの声ですが、ムファサの王としての威厳を表現できる素晴らしい声です。シンバ役のグローヴァーは、「ハン・ソロ」で若き日のランド・カルジニアンを演じていましたが、歌手としても有名で、彼とビヨンセのデュエットによる名曲「愛を感じて」は本作でも聴きどころです。スカー役のイジョフォーはあちこちの作品に顔を出す出力派で、「ドクター・ストレンジ」にも出ていました。こうしてみると、顔が広いファヴロー監督の「マーベル人脈」とか「スター・ウォーズ人脈」に連なる人が多いですね。

 

この作品は、オリジナルのときから手塚治虫先生の「ジャングル大帝」に設定が似ている、といわれてきました。しかし、基本のお話としては、シェークスピアの「ハムレット」に何よりも似ています。要するに、説話のパターンとして普遍的な、王殺しと王位の簒奪、若き王子の苦悩と成長を描くストーリーです。これが動物の世界をテーマとすることで、一層、シンプルに力強く描き出される、という構図なのだと思います。

 

今回の「実写化」で、その本来の意図がさらにはっきりと浮き上がったのではないか、と思いますし、監督の狙いも本質的にはそこにあったのだろうと感じています。映画表現の今後の可能性について、非常に刺激を受けた一作でした。Photo_20190814135701

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