2017年3月18日 (土)

【映画評 感想】アサシン・クリード

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 映画「アサシン・クリード」
ASSASSIN’S CREEDを見ました。ドイツ出身の人気俳優マイケル・ファスベンダーの主演作で、共演はフランスを代表する女優マリオン・コティヤール。またジャスティン・カーゼル監督は、同じ2人が主演した2015年の話題作「マクベス」の監督でもありました。

 この映画の元となったのは、フランスのゲーム会社UBIの代表作「アサシン」シリーズです。大ヒットゲームの映画化、というのは時々ありますが、やはりゲームと映画は異なる媒体なので、そのまま移植するわけにはいきません。

 ゲームの方は、人類の起源に異星人なのか超古代文明人なのか、とにかくいわゆる「神」のような存在が関わった、というのが前提の世界観になっております。そして、その「神」が残した情報をめぐり、古代から数千年の長きにわたり二つの秘密結社が抗争を続けており、その一方が人類を統制支配しようとする「テンプル騎士団」、もう一つが人類の自由意思を守ろうとする「アサシン教団」である、という設定です。

 この両者の戦いは現代にまで及んでいるのですが、テンプル騎士団が20世紀初めに創設したアブスターゴ財団が先端科学技術アニムスを開発し、遺伝子情報の中に残された先祖の記憶を再体験できるようになります。その結果、アサシン教団の戦士の子孫が、十字軍時代のエルサレム、ルネサンス期のフィレンツェ、産業革命期のロンドンに潜入し、先祖と一体となって歴史に介入し、現代の問題を解決していく、というのがゲームの基本的な話です。

 もちろん歴史上、実在したテンプル騎士団、暗殺(アサシン)教団をモデルとしているわけですが、史実とは関係なく、あくまでもゲーム独自の解釈になっているわけです。

 それで、今回の映画化では、上記の基本設定はそのままに、従来のゲームで登場したエルサレムやフィレンツェを選択せず、新たに15世紀末のスペインを舞台としています。つまりキリスト教勢力によるレコンキスタが成功して、最後のイスラム国家グラナダ王国(あのアルハンブラ宮殿で有名ですね。宮殿のシーンは映画でも登場します)が陥落、イスラム勢力が欧州から去り、スペイン王国が成立した頃、そしてまもなくスペインのイザベル女王の後援を得て、コロンブスが新大陸に出発する時期を舞台としています。

 

 1491年、スペインで暗躍したアサシン教団の戦士、アギラール(マイケル・ファスベンダー)は、同僚の女戦士マリア(マリアーヌ・ラベド)と共に重要な任務を遂行していました。グラナダ王国の最後の君主ムハンマド12世(カリード・アブダーラ)の幼い王子が、スペイン国王の側近でテンプル騎士でもある異端審問長官トルケマダ(バビエル・グティエレス)に捕えられ、ムハンマドが所持している古代の秘宝で、それを所持することで全人類を支配できる「エデンの果実」がトルケマダ、ひいてはテンプル騎士団の手に渡ることを防ぐ、というのがその任務でした・・・。

 それから500年後。1988年のメキシコ・バハで、少年カラムはある日、父親が母親を殺害し、さらに謎の勢力に逮捕される光景を目にします。その場を命からがら脱出したカラムは、さらに30年後の2016年、中年の犯罪者となってアメリカの刑務所にいます。

 誕生日のその日、殺人犯カラム(ファスベンダー)は死刑の執行を迎えます。薬物を注射され、最期の瞬間を迎えた・・・と思った次の瞬間、自分はまだ死んでおらず、病院のようなところで蘇生したことに気付きます。その場にいたソフィア(マリオン・コティヤール)は、ここがアブスターゴ財団の施設であることを告げ、彼に祖先の記憶に退行する装置アニムスを取り付けます。この15世紀の世界を体験する実験の結果、カラムは間違いなくアサシン教団のアギラールの子孫であることがはっきりします。

カラムの体力の限界を迎え、ソフィアはそれ以上の実験を性急に続けることに反対しますが、アギラールはエデンの果実を手にした最後の人物、とされており、それを手に入れることに執着する財団の総裁でソフィアの父、アラン(ジェレミー・アイアンズ)は、アギラールがトルケマダの一派に捕えられ、火刑に処せられたとされる日付の歴史を再現することをソフィアに急がせます。というのも、アランは実は現代に続くテンプル騎士の一人であり、騎士団総長ケイ(シャーロット・ランプリング)から、まもなく開催される騎士団総会までに成果が出ない場合、財団への財政支出を打ち切る、と通告されていたのです。

一方、カラムは施設内に、かつて母を殺して姿を消した父ジョセフ(ブレンダン・グリーソン)がいることをアランから告げられます。30年ぶりに再会した父から、カラムはあの日の真相を聞かされます・・・。

 

ということで、トルケマダやムハンマド12世など、歴史上に実在した人物と架空の人物が入り乱れる歴史ファンタジーですが、馬に乗ったり弓を射たり、独特のアサシン・ブレードで戦ったり、とファスベンダーとしても今までで最もトレーニングが厳しかった映画だったそうです。アクションシーンがゲームそのままで再現されます。

当然、スタントの人たちも大活躍で、特にゲーム版での特徴だった、ワシのように高いところから飛び降りるイーグル・ダイブの再現ではデジタル技術は使わず、本当にダミアン・ウォルターズという人が37メートルもの高さから降下して撮影しているそうで、まさにド迫力です。

「マクベス」以来の共演であるコティヤールも、今回は冷静な科学者、という役どころですが、ファスベンダーとは息もぴったり、いい演技をしています。アイアンズとランプリングという2人の大物も抜かりがないです。特に70年代に「愛の嵐」で一世を風靡したランプリングも今や71歳ですが、相変わらずの美しさです。また、父ジョセフ役のブレンダン・グリーソンはハリー・ポッター・シリーズや「オール・ユー・ニード・イズ・キル」にも出ていたベテラン俳優ですが、スター・ウォーズのエピソード7や「レヴェナント」に出演して知名度を上げているドーナル・グリーソンのお父さんだそうですね。

しかし今作で注目なのは、やはり15世紀スペインのシーケンスでして、物語の大半を占める15世紀のストーリーでは、登場人物は皆、よくハリウッド作品でありがちな、なんとなく英語にしてしまうということはなく、スペイン語で押し通しております。素晴らしいですね。こちらでなんといっても光っていたのが、アギラールの仲間でおそらく愛し合ってもいる女戦士マリア役のマリアーヌ・ラベドという人。とにかくこの役柄にぴったりのミステリアスな美女ですが、経歴を調べてみるとスペインの人じゃなくて、ギリシャ系のフランスの女優さんだそうですね。イーサン・ホーク主演の2013年の映画「ビフォア・ミッドナイト」あたりがハリウッド・デビューで、近年、急速に評価が高まっている人だとか。このへんからぐっと出てくるかもしれませんね。

とにかく全編がゴージャスかつ奇抜な映像で埋め尽くされ、ゲームのファンもそうでない人も十分に楽しめる一作でしょう。なんとなくラストは今後も続きそうな感じで終わります。続編でさらに、別の時代を取り上げてくれると嬉しいですね。

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2017年3月 2日 (木)

【映画評 感想】ラ・ラ・ランド

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話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」
La La Landを見ました。先月末に発表された米アカデミー賞で13部門14ノミネート(あの「タイタニック」と並ぶ史上タイ記録)され、主演女優賞のエマ・ストーン、監督賞のディミアン・チャゼルなど6部門を制する快挙を成し遂げました。なお、私が見た千葉県市川市のTOHOシネマでは、パンフレットが売り切れとなっておりました。

前作「セッション」で一躍、有名になったチャゼル監督ですが、本当に作りたいのは実は、ミュージカルだ、といって奮闘した結果が今回の大成功。アカデミー監督賞受賞者としては32歳という史上最年少となりました。ちなみに、これまでの最年少者は1931年に第4回アカデミー賞で監督賞を受けたノーマン・タウログ監督。同じ32歳でしたが、チャゼル監督の方が数か月、若いとか。このタウログ監督もチャゼル監督と同様、音楽映画が得意な人で、特に60年代のエルヴィス・プレスリー主演の映画、たとえば「GIブルース」「ブルー・ハワイ」などは、この人が手がけたことで知られています。

ということで、最年少で受賞と聞くと、さぞかしトントン拍子のスピード出世、という監督なのかと思ってしまいますが、実は決してラッキーなだけの人ではなく、若いころにはジャズ・ミュージシャンを目指して挫折。その後は名門ハーバード大学に進み、映画の脚本を書くようになったけれど、あくまでも頼まれ仕事ばかり。そうした苦い経験をもとに自分で書いた脚本を売り込んで「セッション」の成功をつかみ、さらに「今時、ミュージカル?」という疑問の声を抑えて、執念でこの作品を作ったということで、かなり根性の人です。確かに、「レ・ミゼラブル」や「オペラ座の怪人」のように、すでに舞台でヒットして定評のあるミュージカル作品の映画化は近年でも珍しくありませんが、映画オリジナル脚本のミュージカル、というのは非常にまれです。

なお、本作はオペラのようにあらゆるセリフを楽曲にしている作品ではなく、普通のストレートな芝居のパートと、音楽のパートが交差する作品ですが、この辺が実に巧妙に使い分けされています。厳しい現実を描く通常のパートと、夢の世界を描くファンタジックなミュージカル・パート、というのが意識して配置されており、これが最後まで効果的です。

本作は、夢をつかもうと悪戦苦闘する売れない女優と、世間に才能が理解されないジャズ・ピアニストの姿が描かれますが、このへんも監督自身の下積み経験がにじみ出ているように思われます。「それでも、いつかは自分の夢をかなえたい」と思って奮闘している人すべてへの応援歌のような素晴らしい作品ですね。また、主演のエマ・ストーンも「アメイジング・スパイダーマン」で注目されるまでは苦しいオーディション巡りの日々だったそうで、その経験も大いに役作りに反映しているように見えます。本作は当初、あのエマ・ワトソンがヒロインという案もあったそうですが、結果から見てエマ・ストーンで正解だったように感じます。そういえばエマ・ストーンの方は、ギレルモ・デルトロ監督の「クリムゾン・ピーク」を主演する予定だったものを降板したことがありました。あちらはミア・ワシコウスカで正解だったように思われます。まあ、こういう役者と監督、作品の出会いも運命的なものといえますね。

ところでこの映画、恋愛ドラマとしてみると、けっこう切ない内容でもあります。全体に映像作りや音楽、色彩、衣装など、現代を扱っていながらどこか古き良き時代のノスタルジーを掻き立てる作品でもあり、あの名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」にどこか似ている、という声が、見た人から上がっているそうですが、最後まで見るとそのわけが分かります。季節ごとに話が移ろう構成とか、ミアが書いた一人芝居の脚本での役名が「ジュヌヴィエーブ」であるとか、何よりラストシーンの後味が非常に似ているのです。そして、なるほど、人生とは、いたるところで分岐点があり、そこで自覚的に動けた人が夢に近づいていけるのかもしれない。しかしまた、そこで何かを犠牲にしてしまうかもしれない。いろいろなことを考えさせられる作品です。ディミアン・チャゼル監督、後生おそるべし。32歳にして人生、ここまで達観できているとは・・・。

言うまでもないですが、アカデミー作曲賞、主題歌賞をとった音楽が本当に素晴らしい! 全英、全米のヒットチャートでそれぞれ1位、2位となっているそうで、これは映画サントラ盤として、やはりミュージカル映画の傑作「レ・ミゼラブル」以来のヒットです。あえていって今時、はやりの映画音楽然としたスコアからすれば、非常にキャッチーで耳につく旋律は、それこそ「シェルブールの雨傘」などの時代の作品を想わせますが、それが実に素晴らしく、感動的です。また、挿入曲としてジャズの名曲が登場するのはもちろん、冒頭のチャイコフスキー「1812年」に始まり、往年のahaのヒット曲「テイク・オン・ミー」やら、日本の滝廉太郎の曲まで使用しており、エンドクレジットで紹介しているので、いろいろ注目です。さらに、グラミー賞歌手のジョン・レジェンドがミュージシャン役で出演しており、「スタート・ア・ファイアStart A Fire」という曲を熱唱しています。これがまた、作品内では、主人公が正統派ジャズではない曲を不本意に演奏させられている、というシーンであるにもかかわらず、非常に名曲でカッコいいです。

作品の最初の部分、実際に高速道路を借りて、渋滞する車の屋根に上ってテーマ曲を歌う群衆、というシーンに度肝を抜かれます。あのつかみ方で、監督の才能がいきなり垣間見えますね。それから、ほかに驚くべき点として、ピアニスト役のライアン・ゴズリングはすべてのシーンでピアノを実際に弾いているそうで、ほんの3か月ほどの特訓であれを弾いているとは、恐るべき努力と才能です。また、ゴズリングもストーンも、演技を撮影しながら実際に歌って生録りを敢行したそうで、これは「レ・ミゼラブル」でも行われた手法ですが、事前に録音した音に口パクするのとはわけがちがいます。事実上、舞台でライブを見るような臨場感ですが、当然ながら出演者は大変です。まあ、今年はちょっとトランプ大統領がらみで政治的な側面も見え隠れしたアカデミー賞でしたが、ああいう背景がなければ、本作はもっと受賞数を増やしたのではないかと、その点が残念に感じます。

 

高速道路の渋滞の中、オーディションのセリフ覚えで夢中な下積み女優のミア(エマ・ストーン)の愛車プリウスを、売れないジャズ・ピアニストのセス(ライアン・ゴズリング)のオープンカーが追い抜きます。「何よ、感じの悪いやつね」。2人の出会いは最低でした。

ミアはカフェでアルバイトしながら、映画やテレビドラマのオーディションを受けては落選の連続。その日もオーディションを受けて手応えなしで、同じ女優志望のケイトリン(ソノヤ・ミズノ)らと、業界の関係者にコネを作るためパーティーに乗り込みますが、脚本家を自称する男グレッグ(フィン・ウィトロック)にしつこく言い寄られた以外、収穫なし。おまけに愛車を駐車違反で警察に移動され、失意のまま徒歩で帰宅することに。しかしそんな中、素晴らしいピアノの音が聞こえてきます。ふと通りすがりの店に立ち寄ると、演奏していたのはセスでした。

一方のセスは、姉ローラ(ローズマリー・デウィット)から「堅実な仕事に就きなさい」と諌められながら、ジャズ専門の店を開くという夢を諦めきれません。年末のその時期、クリスマス・ソングを弾くように店のオーナー、ビル(JK・シモンズ)に命じられていたのに、勝手に自分の好きな曲を弾いたことで、その場で解雇。ミアは「あなたの演奏に感動した」と近寄りますが、セスはふてくされて彼女を無視し、店を出て行ってしまいます。こうして、2人の偶然の再会も最悪なものでした。

ところがしばらく後、ある野外パーティーで演奏しているコピーバンドの演奏に目を留めたミアは、キーボードを弾いているのがセスだと気付きます。この会場でも、グレッグにつきまとわれていたミアは、セスに友人の振りをしてもらい、2人で会場を抜け出します。

ここまで、ずっと好感度ゼロでありながら、偶然の出会いが何度も続いたことで、急速に感情が高まっていくミアとセス。お互いに売れない女優とピアニストである身の上で、夢を語り合ううちに意気投合していき、すぐに愛し合うようになります。

だが、そのままでは現実は何も変わりません。己が信奉する純粋なジャズだけを演奏する店を開きたいと考えるセスは、資金を貯めるために、旧友のキース(ジョン・レジェンド)が結成した新しいR&B系のバンドに参加。初めは乗り気ではなかったものの、このバンドが思いがけない成功を収めてしまい、長いツアーに出ることになります。ミアの方も、自分で脚本を書いた独り芝居を自費で上演し、一世一代の大勝負に出ようとします。こうして、徐々に2人の進む道は離れていきます・・・。

 

「セッション」のJK・シモンズが、チョイ役ながら顔を出しているのが嬉しいですね。それから、ヒロインの友人役のソノヤ・ミズノは東京生まれの日系英国人で、これまではモデル業中心でしたが(ユニクロの広告などでも活躍していました)本作が大注目となったので、映画界での活動も増えてきそうです。エマ・ワトソン主演で間もなく公開の実写版「美女と野獣」にも出演しているとのことです。

ということで、この作品は映画館で見るべき一作だと思いました。もちろん、このような話題作は遠からずDVDになり、テレビでも放映するでしょうが、これほど計算されつくした映像と音楽を味わうには、テレビではいかにももったいないですね。

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2017年2月24日 (金)

【映画評 感想】ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち

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「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」
Miss Peregrine's Home for Peculiar Childrenという映画を見ました。ティム・バートン監督の新作です。なんというか、X-Menとハリー・ポッターとメリー・ポピンズを足して、そこにタイム・ループもの(特定の同じ時間を何度も繰り返す)の要素を加えた、という感じの非常に独特の世界観です。話の内容的に、映像化がかなり難しそうなものなのですが、随所に工夫が凝らされており、映画として非常に面白いと思います。タイム・ループものでは、少し前の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などもありましたが、今回はダーク・ファンタジーとしての持ち味と、SF的な設定の融合が興味深いです。

 原作は2011年に発表されてベストセラーとなったアメリカの小説で、大筋はそのままなのですが、映画化に当たってかなり変更している点もあるそうです。現代のアメリカと、第二次大戦中の英国ウェールズが主要な舞台となります。その時代設定が原作とはちょっとずれているのですが(原作では1940年、映画では1943年)、ラストシーンの設定のための変更らしく、なかなかよく考えられております。

 

 2016年、アメリカ・フロリダに住むジェイク(エイサ・バターフィールド)は、周囲となじめない16歳の孤独な少年です。学校では友達もできず、家庭では両親とも疎遠。祖父エイブ(テレンス・スタンプ)に育てられたおじいちゃん子のジェイクは、ある日、祖父の身に異変が起きたことを知って、アルバイト先の上司シェリー(オーラン・ジョーンズ)と共にエイブの家に駆けつけます。

 家は荒らされ、エイブは両目をくりぬかれて瀕死の状態で倒れていました。彼はジェイクに、ウェールズのケインホルム島に行き、孤児院の管理人ミス・ペレグリンに会うように言い残して死亡します。その場で、腕の長い不気味な化け物の姿を見たジェイクは、拳銃を携帯していたシェリーに射撃するように言いますが、シェリーには化け物の姿は見えず、銃弾も命中しませんでした。

祖父の無残な死にショックを受けたジェイクは、両親の勧めで精神科医のゴラン医師(アリソン・ジャニー)の診療を受けることになりますが、もともと、浮世離れしたおとぎ話のようなことばかり語るエイブと、そのエイブに育てられたジェイクの正気を疑っていたジェイクの父親フランク(クリス・オダウド)は、今回の件でもエイブの言うことなど真に受けるはずがありません。やがてジェイクの誕生日に、叔母スージー(ジェニファー・ジャラッカス)からエイブの形見の詩集を渡されたジェイクは、その中に挟まれていた書簡から、祖父エイブが実際にケインホルム島のミス・ペレグリンと最近まで交流していた事実を知ります。

第二次大戦中に、エイブはミス・ペレグリンが管理するケインホルム島の孤児院で、奇妙な子供たちと生活していた、と聞かされて育ったジェイクは、それまでその話を作り話だと思っていましたが、それが実話であるかもしれないと思い立ち、ウェールズに行くことにします。意外なことに、現地に行って現実と空想の整理をすることは、精神的に良いことだ、とゴラン医師も後押ししたため、父フランクと共にジェイクはケインホルム島に渡ることになります。

島で、口実を付けてフランクと別行動をとったジェイクは、地元の少年たちの案内で孤児院の廃墟にたどり着きます。そこは大戦下の1943年9月3日に、ドイツ空軍の爆撃で破壊されたのですが、やがてそこで、かつてエイブから聞いていた奇妙な子供たち――空気より軽い少女エマ(エラ・パーネル)や、手から炎を発するオリーヴ(ローレン・マクロスティ)、透明人間のミラード(キャメロン・キング)といった人物に実際に会うことになり、1943年の世界に行き着きます。孤児院は爆撃前の姿で立っており、ジェイクを出迎えたのは学院長ミス・ペレグリン(エヴァ・グリーン)でした。超能力を持つ奇妙な子供たちを世間から隔離するために、安全な一日を選んで「ループ」を作るのが、ペレグリンのような鳥に変身できる種族「インブリン」の仕事であり、1943年9月3日を数えきれないほど長い年月、繰り返しているというのです。ドイツ軍爆撃機の爆弾が直撃する直前で、前の日に戻る・・・永遠に続く9月3日。しかしそれは、単に世間の人とドイツ軍から子供たちを守るだけではなく、もっと別の脅威からも守る秘密がミス・ペレグリンにはあるようです。祖父エイブが異常な死に方をした、と聞いたペレグリンと子供たちに緊張が走ります。

やがて、ジェイクは奇妙な子供たちを狙う恐怖の敵バロン(サミュエル・L・ジャクソン)の存在を知り、祖父の死にそのバロンと、彼が従える化け物ホローガストが関わっていた事実を知ります。近隣のループ地ブラックプールがバロンたちに襲撃され、管理人ミス・アヴォセット(ジュディ・デンチ)が負傷して逃れてくると、事態は緊迫化。さらに、親しくなったエマから「普通の人はループの世界に入れない」と聞かされたジェイクは、自分も「奇妙な子供たち」の一人であり、特殊な能力を持っていること、祖父エイブもそうであったことを悟りますが・・・。

 

ということで、物語は思いがけない方向に急速に動いていきますが、相当に複雑なお話を力技でまとめ上げている感じ。さすがティム・バートンなのですが、しかし、案外にティム・バートン臭さはない感じもします。そこはやはり、今回は常連ジョニー・デップが出ていないからでしょうか。

エヴァ・グリーンが何と言ってもはまり役です。尋常でない人物像ですので、このぐらい存在感がある人でないと全く務まらないでしょう。現在19歳のエイサ・バターフィールドは「縞模様のパジャマの少年」で見出された逸材で、マーティン・スコセッシ監督の「ヒューゴの不思議な発明」でブレイクし、「エンダーのゲーム」でも主演、そして本作と、まさに昇り竜の若手注目株。繊細な演技が要求される本作でも、見事に演じきっております。ヒロイン格のエマを演じたエラ・パーネルは「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」などに出た後、ディズニーのヒット作「マレフィセント」でアンジェリーナ・ジョリーが扮した魔女マレフィセントの少女時代を演じて、一躍注目されました。こちらも1996年生まれで、これから有名になりそうです。そして、重鎮サミュエル・L・ジャクソンとジュディ・デンチが作品をしっかり支えています。こういうファンタジーに説得力を与えるのは、実力派の大物俳優の存在です。いい仕事をしています。その意味では、二つの時代をつなぎ全体のカギを握る祖父エイブ役のテレンス・スタンプも重要ですが、1960年代から活躍する大ベテランの演技が光ります。また、冒頭で活躍するシェリー役のオーラン・ジョーンズは「シザー・ハンズ」や「マーズ・アタック!」にも出ていたバートン監督とは縁の深い女優さんです。

ところで、こういうファンタジー映画というと、第二次大戦下の英国が舞台、というものがけっこう多いですね。そして、ドイツ空軍が必ず登場します。今回もハインケルHE111の編隊がやって来て、爆弾を落としていきます。まさに今回の隠れた主役です。ちょっと思ったのですが、ハインケルの爆弾倉は縦に爆弾を積む独特の形式だったような気がするのですが、この映画では横置きのようで、あのへんはどうなんでしょうか。

ほかにも、戦時中に軍に入隊したエイブがミス・ペレグリンに電話をかけてくるのですが、その背景で星の徽章を付けた軍用車が走っていたり、第二次大戦中のアメリカ海軍の戦艦の艦上シーンで整列した水兵を将校が検閲していたり、と細かいところで、ほんのワンシーンでとにかく手を抜かないのが素晴らしい。おや、なぜこんなシーンで日本の紙幣が映るのだろう、と思っていると、その後で東京に話がつながっていくとか・・・実に芸が細かいです。一瞬も見逃せません。後で何回も見直す必要があるような、凝った作品です。

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2017年2月10日 (金)

【映画評 感想】ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男Free State of Jones

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 「ハンガー・ゲーム」で知られるゲイリー・ロス監督が、マシュー・マコノヒー主演で製作した映画「ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男」
FREE STATE OF JONESを見ました。大物俳優の新作なのに、都内でも2か所でしか公開されていないので、私個人としてはかなり遠出となる新宿・武蔵野館まで足を運びました。この映画館がまた、規模の小さいシアターでして、ちょっともったいないな、というのが正直な感想。

 とにかく、ほとんどの日本人が知らない人物の物語で、そしてご当地のアメリカでもあまり知られていない、というこのお話。映画としてどうこういう前に、まずはこの史実を知ってほしい、と強く思いました。南北戦争時代のアメリカ南部が舞台なのです。

 南北戦争という題材そのものが、日本ではいまいち、関心を引くとは言えません。その理由の一つとして、アメリカがこの内戦をしている時期、日本も幕末の動乱から戊辰戦争へと向かう時代であり、外国の戦争より国内の戦争に目が向いていた。それは当時もそうだったし、今でもそうだ、ということだと思われます。ただ、南北戦争のために、もともとアメリカ海軍のペリーが来航したことで始まった幕末の動乱に、結果としてアメリカが介入できなかったという意味合いがあり、さらに、南北戦争の後に余剰となった武器や軍装品が、戊辰戦争時の日本に大量に送られた、という点でも、大いに日本史にかかわりがある歴史イベントだと考えられます。明治初期、西郷隆盛が建軍した初期の日本陸軍の軍装に、アメリカの軍装、特に北軍の軍装の影響が大きいのも、間接的な影響と言えましょう。

 さて、この作品は、南北戦争のさなかに、戦争に嫌気がさして南軍から脱走したミシシッピ州ジョーンズ郡の貧しい白人農民ニュートン・ナイトNewton Knight1837年~1922年)が、同じく南軍の脱走兵士や、黒人の逃亡奴隷たちを率いて、南軍にも北軍にも属しない、人種差別や貧富の差を認めない独自の政体「ジョーンズ自由州」を樹立していた、という驚くべきテーマを扱っております。いわば正式な奴隷解放よりも前に、すでに実践していた人物が実在した、というわけです。

 しかし、こういう人物の存在は、敵対勢力だった南部側はもとより、奴隷解放の手柄のお株を取られてしまう北部側から見ても、邪魔なわけでして、そのためにこの自由州と、ニュートン・ナイトの名は正統アメリカ史から黙殺されてきたのだそうです。実際、ナイトの戦いは戦争の間だけで終わらず、奴隷解放と南北戦争の終結後も、実際には南部で続いていた「年季奉公」という名の事実上の奴隷制度や、法律的には認められた黒人選挙権の事実上の否定、さらにKKK(クー・クラックス・クラン)のような白人至上主義者による黒人の虐殺、私刑・・・こういったものとも戦わなければなりませんでした。そういう圧力の中、元奴隷の黒人女性を内妻とし、彼らの教育や、参政権の確立にも尽力して85歳で亡くなったナイトという人は、まことに強靭な人物だったのでしょう。

 そして、2017年の今、こういう作品を見ると、いわゆるトランプ大統領の支持層の中に今も見え隠れする白人至上主義者の存在があまりにも露わに見えます。ああ、もう150年も前から続いている「ニュートン・ナイトの戦い」は今でも終わっていないのだな、と感じるわけです。

 本作は、2016年に公開後、一部で大きな反響を得て、アカデミー賞も有力視されていたのですが、結局、2017年の賞レースにはノミネートされませんでした。思うに、あまりにも生々しい題材なので、今のアメリカ人には直視できなかった部分もあるのではないか、と思っております。また、史実としてはどこまでが本当にあった話なのか、ジョーンズ自由州なるものの実態という点で、学術上、いろいろ問題もあるともいいます。ただ、本作でも好演しているマハーシャラ・アリは、「ムーンライト」でアカデミー助演男優賞にノミネートされているそうですね。この人は「ハンガー・ゲーム」シリーズでも有名で、今後も活躍してくれそうです。

 

 1862年、南北戦争のさなか。南軍衛生兵として従軍するニュートン・ナイト(マコノヒー)は、「黒人奴隷を20人以上所有している者は兵役を免除する」という南部の新法に激しく憤ります。彼のような、奴隷など持っていない零細農家には、もともと何の関係もない戦争です。金持ちのために貧乏人が戦う、というこの戦争に疑いを持ったナイトは、わずか14歳で徴兵された甥っ子のダニエル(ジェイコブ・ロフランド)が目の前で戦死するのを見て、ついに脱走を決意。縛り首になるのを覚悟で、ダニエルの遺体をジョーンズ郡に運びます。

 しかし、久々に戻った故郷では、情け容赦なく物資や食料を徴発していく南軍補給官バーバー中尉(ビル・タンクレディ)の暴虐により、疲れ切った女性や子供の姿がありました。やがてバーバーに銃を向けたナイトはお尋ね者となり、妻セリーナ(ケリー・ラッセル)からも見放されて身を潜めることになります。一人息子が病気のときに介護して救ってくれた黒人奴隷の女性レイチェル(ググ・バサ=ロー)の手引きで、沼地の奥にたどりついたナイトは、逃亡奴隷のモーゼス(アリ)たちと出会います。運命を諦めきっているモーゼスたちに武器を調達したナイトは、彼らを追ってきた奴隷捜索隊の連中を血祭りに上げます。

 彼らの蜂起を知って、各地から集まってきた逃亡奴隷や脱走兵たちが集結し、軍隊規模にまで大きくなっていきます。激戦の末、バーバーの上官である南軍の残酷な指揮官、フッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィ)を処刑したナイトたちは、さらに南軍の拠点を占領して1864年、ジョーンズ自由州の独立を宣言しますが、それは終わりなき戦いの序章にすぎませんでした。1865年、戦争が終わって、憲法の改正により南部の黒人奴隷はすべて解放されたはずでしたが・・・。

 さらに85年後の1950年代にもなって、また新たな問題が起きたことを映画は紹介します。ナイトの子孫であるデイビス・ナイト(ブライアン・リー・フランクリン)が、白人女性と婚姻したことが違法として、デイビスは逮捕されてしまいます。彼はナイトとレイチェルの間に生まれた二男の子孫であり、8分の1が黒人の血統である、よって白人との婚姻は違法であるというのです。この時代になっても、南部の州法では、白人と異人種との結婚は許されない犯罪行為だったのです・・・。

 

 凄惨な戦闘シーン、残虐行為や私刑、といったシーンが全編に出てくる重い作品なのですが、不思議とマコノヒーが演じていると、このどこか毅然としつつも飄々たる人物が映画の中心にいることで、単なる残酷映画じゃない説得力が生まれる感じがしますね。おそらくこの人が主演でなければ、うまく映像化できなかった作品じゃないでしょうか。モーゼス役のアリもいい味を出しており、レイチェル役のググ・バサ=ローもいいですね。普通にやってしまうと見るに堪えない陰気な話になりかねない本作を、俳優陣の持ち味で見事に作品として成り立たせている感じです。

 この作品で見る限りですが、ナイトという人は、間違っているものを見ると黙っておられず、困った人を見ると助けたくなってしまう、それで次々に面倒に巻き込まれてしまう性分の人に見えます。しかし、いつしか不満分子が彼の下に自然に集まってきて、反乱軍の大将に祭り上げられてしまう、というタイプのリーダーのようです。あえて言って、欧州ならロビン・フッド、日本史上でいえば平将門とか、西郷隆盛のような人物ですね。何か自覚的に戦略を描いたり、仕掛けたりしたわけではなく、時代が彼を求めていて、そのように自然に動いたらこうなった、ということ。その、いつの間にか、こうなっちゃったんだよ、というのを表現するには、器量の大きさ、人の好さ、自然さがないといけません。マコノヒー以外に、これほど的確にこれを演じられる人もいないでしょう。なお、本作でのナイトの主張は、人種問題よりもむしろ、貧富の格差の問題の方が前面に出ており、見ようによっては共産主義的な考え方に近いもののように描かれていますが、実在のナイトがそうであったのか、は私には分かりません。

 南軍の軍装が丁寧に再現されています。通常、南北戦争というと勝者である北軍側の描写が多く、その意味で、南軍側から描いた非常に貴重な映画です。私も、当時の南軍の灰色の軍装が、オーストリア帝国軍のものの影響を強く受けていたことは知っておりましたが、星章を着けている佐官以上の服装は調査したことがありますが、尉官以下についてはよく承知しておりません。この映画では、将校の下襟は黄色であったり、下級将校は襟にドイツ風のリッツェンを付けていたりするなど、軍服のディテールに目を奪われました。

 ところで、ナイトたちにしても、敵対する連中にしても、この映画の世界で物を言うのは、最後は銃なのです。要するに力こそ正義。たとえ黒人奴隷であっても、銃を持って武装していたら相手も言うことを聞くしかない。結局、西部劇の世界です。選挙の投票という最も民主的であるべき場でさえ、妨害する勢力も、投票しようとする側もどちらも銃を構えて恫喝しあうシーンがあります。南北戦争で銃器の扱いに手慣れた連中が、そのまま戦後も銃を構えた正義を主張し続けたのが西部劇的な世界で、いわば戦国時代の後に刀狩をしなかったらどうなったか、という歴史なのだと思います。アメリカ人が、今に至るまで銃による正義を主張し続けるのはなぜか、というのも、このへんに原点があるのだろうという感想も抱きました。

 アメリカ人が長らく自慢してきた自由とか平等とか、民主主義とかいう観念が一体、なんであるのか。外国人である我々から2017年の現代の目で見たときに、それが非常に綺麗ごとと矛盾に満ちたおかしなものに映るわけですが、歴史的に紐解くことで、もうこのへんからさほど進歩していないのだよ、という描き方をしたのが本作だろうと思います。このような時代に一石を投じた監督と出演者に、敬意を表したいと思いました。おそらく、アメリカの一部の人たちは、この作品の内容に反発したのではないかとも想像されます。

 せっかくこういう作品を日本でも公開しているのですから、少しでも多くの方に見てほしいと思いました。どう感じるのであれ、問題作であることは間違いないです。また、私個人としては、劇映画としても非常に見応えある一作だったと思います。

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2017年2月 5日 (日)

【映画評 感想】マグニフィセント・セブン The Magnificent seven

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 黒澤明監督の代表作を一つ挙げろ、といわれれば、人それぞれでしょうが、
1954年の「七人の侍」を推す人は多いでしょう。私は個人的に、黒澤監督は特に戦国時代ものを撮るときが最も面白い、というのが持論でして、「七人の侍」か「隠し砦の三悪人」か「影武者」か、と感じております。おそらく、西部劇のような作品を日本で撮るなら、背景としては戦国時代じゃないのか、というのがあると思います。アウトローが跋扈していておかしくない時代、です。同時に、黒澤作品と言えばこの人、三船敏郎さんが一番、輝くのも戦国ものと思われるのですね。「七人の侍」はまた、Seven Samuraiの名で国際的にも有名であり、多くのハリウッド監督にも影響を与えたと言われます。先日のスター・ウォーズ新作「ローグ・ワン」の監督も、徐々にすご腕の仲間が集まってチームを組み、絶体絶命の困難な任務に立ち向かう、という要素で「七人の侍」を意識した、と発言していたようですね。

 それで、公開当時、その「七人の侍」に惚れ込んだ名優ユル・ブリンナーがリメイクに乗り出し、自ら主演してこれも西部劇史上に残る名作となりましたのが、1960年の「荒野の七人」The Magnificent Sevenだった次第です。こちらは、その時点でほぼ無名の新人だったスティーヴ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンらの出演者が本作を契機に人気を得て、その後、そろって大スターになりました。

 そしていま、21世紀になってこの原案をそのままに、アントワン・フークワ監督の手で新作西部劇「マグニフィセント・セブン」The Magnificent Sevenが制作される、という一報を聞いて驚いたものです。ということで、見に行って参りました。

 

 南北戦争の余韻が残る1879年、アメリカ西部の小さな町ローズ・クリーク。この町にサクラメントの悪徳資本家ボーグ(ピーター・サースガード)が目を付けました。近くにある金鉱山の経営のため、この町を乗っ取って独り占めにし、拠点とする計画です。開拓した住民たちは3週間以内に立ち退くように強要されました。勇気ある青年マシュー(マット・ボマー)は抗議の声を上げますが、ボーグに射殺されてしまいます。

 マシューの妻、エマ(ヘイリー・ベネット)は、友人のテディ(ルーク・グライムス)と共に、ボーグの横暴から町を救ってくれそうな腕利きのガンマンを探すことに。そしてある町で、見事にお尋ね者を始末したチザム(デンゼル・ワシントン)を見て、懇願します。初めは取り合わなかったチザムですが、ボーグの名を聞くと心が動き、エマたちの力になることを約束します。

 さらに、チザムが追っていたお尋ね者のバスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、早撃ちの名手でカードと女が好きなファラデー(クリス・ブラット)、南北戦争時代からのチザムの知人で、かつて南軍きっての狙撃兵だったグッドナイト(イーサン・ホーク)、その相棒でナイフの使い手である東洋人ビリー(イ・ビョンホン)、往年はインディアン狩りで名を上げたものの、今では時代が変わり失業している怪力男のジャック(ヴィンセント・ドノフリオ)、さらにひょんなことから仲間に加わる一匹オオカミのコマンチ族戦士レッド・ハーベスト(マーチン・センズメア)が集結し、まずはローズ・クリークを占拠しているボーグの手下、22人を血祭りに上げます。

 町の人々は怯えつつも、頼もしい7人のガンマンの登場に勇気を振り絞り、ボーグと闘うことを決意。

 しかし、怒りに燃えたボーグは百人を超える大軍を編成し、ローズ・クリークを襲撃することにします。決戦まで残された時間は1週間。7人のガンマンと、町の人々の運命やいかに・・・。

 

 というようなわけで、大筋の所では「七人の侍」「荒野の七人」と変わらないわけですが、細かいところはけっこう相違します。中心人物チザムが黒人である、というだけでなく、メキシコ人のバスケス、東洋人のビリー、インディアンのレッド・ハーベストまで参加してまさに多人種軍団になっています。あえて分類すれば、7人のうち4人が有色人種、というわけで、現代的な西部劇解釈、といえるかと思います。時代考証的には、南北戦争が終わり、奴隷解放令が出た後の1870年代末なので、黒人のガンマンがいてもありえない話ではないし、日本もすでに明治時代となっている時期、ビリーがどこの出身か明言されませんが、このぐらいの時代になると中国、韓国、日本などから来た東洋系のガンマンがいても決しておかしくはない、ということです。が、実際にそういうことがどの程度あり得たか、というとそれはまた別問題で、やはりこのあたりは、リアリティーと言うより、自身も黒人であるフークワ監督の意識、というのも反映しているのかもしれませんけれど、しかしパンフレットによれば、監督も出演者も、そんな人種的なことはあまり意識しておらず、ひたすら娯楽作品として面白い7人の組み合わせを考えたところ、いろいろな人種になった、と言っているようです。実際、フークワ監督の「トレーニング・デイ」でオスカー受賞したデンゼル・ワシントンがここで中心人物として起用された、というのは、あくまでも監督の人脈の中で最高の俳優を求めたらこうなった、ということなのかもしれません。

 今作が、二つの原典と違う点で言えば、経験の浅い若造、というのが7人の中にいません。「侍」における勝四郎、「荒野」におけるチコにあたる人物です。彼らは町の農民の娘と恋に落ちる、という話があったんですが、今回はそのへんバッサリとありませんし、必然的に未熟な若者の成長物語という部分もありません。それから、やはり「荒野」ではチコが担っていた部分と思いますが、「侍」で三船が演じた菊千代のような型破りな人物、というのもいません。まあ今作ではジャックがいくぶん、そうなのかもしれませんが、菊千代の人物像が「侍」で体現しているものが、いかに作品を深くしていたか、というところを思うに、ちょっと今作は物足りない感じもあります。ただ、そういう町の人との関わり的な部分をカットし、戦闘シーンを増量したことで現代的なテンポの映画になっている、のも事実なので、このへんは配分が難しいところです。

 一方で、旧作へのリスペクトという面も大いにあり、特にチザムが全身黒ずくめの衣装であることは、明らかに「荒野」でユル・ブリンナーが演じた7人のリーダー、クリスの影響でしょう。コマンチ族戦士の名前「レッド・ハーベスト」は、ダシール・ハメットのハードボイルド小説『血の収穫』Red Harvestに由来しますが、実はこの小説は、黒澤明監督の別の名作「用心棒」(1961年)の原案の一つとされています。

それより何より、本作では最後の最後になって、「荒野の七人」のあの1960年のテーマ曲(エルマー・バーンスタイン作曲)が思い切り、流れます。ずっと、この有名なテーマ曲をマイナー調にしたような曲が作中で流れていたのですが、やはり本歌取りだったのですね。ちなみに本作の音楽を担当したのはジェームズ・ホーナー。これまでどんな作品の曲を手がけたかといえば、「タイタニック」「アバター」「コマンドー」「コクーン」「マスク・オブ・ゾロ」「トロイ」「アポカリプト」「薔薇の名前」「フィールド・オブ・ドリームス」「グローリー」「ブレイブハート」・・・とまさに巨匠中の巨匠ですが、2015年6月に飛行機事故で亡くなり、本作が彼の遺作となってしまいました。

 「七人の侍」が西部劇と決定的に異なるのは、封建時代の日本の侍と農民は身分違いであり、農民が金で武士を雇用する、などというのが本来は非常識。そもそも、そこを乗り越えて共闘することが難しい、という要素です。ここがストーリー的にも面白いわけですが、やはり西部劇だとそのへん、あまり深くならないのは致し方ないですね。別にガンマンと町の農民で、どちらが偉い、というわけでもありませんので。

 ともかく、フークワ監督もデンゼル・ワシントンも、「この時代に、今後、西部劇が作れるかどうか分からないから、とにかくやった」と発言しているようです。本当にそれはその通りで、特撮が通用せず、ひたすらきついスタントやトレーニングで昔ながらの撮影をするしかない西部劇は、なかなか新しい作品が作られないジャンルとなってしまいました。これは日本の時代劇もそうでしょうが、やはり志のある人たちが作り続けていかないと、ノウハウが廃れてしまう分野じゃないでしょうか。そういう意味でもまことに貴重な一作だと思います。

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2017年2月 4日 (土)

【映画評 感想】ドクター・ストレンジ

 引く手あまた、今を時めく俳優の一人であるベネディクト・カンバーバッチですが、ついにマーベル・シネマティック・ユニバースの世界に登場! 同シリーズの通算14作目「ドクター・ストレンジ」Doctor Strangeで主演、ということで、カンバーバッチに以前から注目している我が家としましては、当然、見に行った次第です。Photo


 考えると、テレビシリーズSHERLOCK(シャーロック)のシャーロック・ホームズとか、カーン(スター・トレック)、アラン・チューリング(エニグマ・ゲーム)など、天才的知性を持ち、高慢ちきで鼻持ちならないけれど、孤高の人で、不器用で、カリスマ性の高い魅力的な男、というのをやることが多かったカンバーバッチ。「ホビット」シリーズでの悪龍スマウグ役もまた、そういうキャラの一典型だったといえましょう。してみれば、天才的外科医から稀代の魔術師に転向したドクター・ストレンジというのは、まさにこの人のための役柄、という感じがあります。実際、もしカンバーバッチ以外の人がやったら、本当に単なるイヤなヤツ、身の程知らず、井の中の蛙・・・というキャラになりかねなかったと思われます。多忙を極めるカンバーバッチに三顧の礼を尽くし、テレビシリーズ続行中のSHERLOCKの制作サイドにも協力してもらい、なんとかスケジュールを調整して出てもらった、という関係者の努力が実った作品といえるのでしょうね。

 

 天才神経外科医の名をほしいままにしているスティーヴン・ストレンジ(カンバーバッチ)。今日もER(救急救命室)で、元恋人で同僚のクリスティーン・パーマー医師(レイチェル・マクアダムス)の懇願を受け入れ、主治医のウェスト医師(マイケル・スタールバーグ)の意向を無視して難しい手術を強行、見事に成功させます。

 地位、名誉、金銭をすべて手に入れ、成功街道をひた走り、いささか天狗になっているストレンジですが、あるパーティーに向かう途中、自慢のスポーツカーの運転を誤り崖から転落、九死に一生を得る重傷を負い、人生は暗転します。

 病院でウェストが救急処置をしましたが、彼の手に負えるものではなく、ストレンジは外科医として致命的な、両手の自由を失います。ストレンジは、あらゆる方法を駆使して手を治そうと試みますが、ついに望みを絶たれ、すべての財産も使い果たしてしまいます。ずっと見守ってくれたクリスティーンに八つ当たりして彼女も離れていってしまう始末。そんな中、ストレンジは担当の療法士から、脊髄を損傷しながら奇跡的に全快した人物がいると聞かされショックを受けます。その男、バングボーン(ベンジャミン・ブラット)はストレンジに、ネパールの「カマー・タージ」という秘密の僧院に行けば、回復の見込みがあると告げます。

 オカルト的な話には本来、懐疑的な唯物論者のストレンジですが、今はそんなことをいっている余裕はなく、ワラにもすがる気持ちでネパールに。そこで悪者に襲われて危ないところ、謎めいた男モルド(キウェテル・イジョフォー)が助けてくれ、カマー・タージに案内してくれます。そこで出会ったのは、何千年の時を生きていると思われるケルト人女性の大魔術師、エンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)でした。彼女は、傲慢で物質に偏重した考え方に満ち満ちているストレンジに、宇宙と生命の壮大な秘密を見せつけ、並列する多元宇宙の中に存在するこの物質世界はほんの一部でしかない、という真理を告げます。初めは受け入れられなかったストレンジですが、幽体(アストラル体)となって身体から離脱する経験を経て、いったん、その正しさを理解すると、エンシェント・ワンを師として仰ぎ、元より優秀な人物であるがゆえに、次々に奥義を学んでいきます。あまりに先走ったことを学ぼうとするあまり、書庫番のウォン(ベネディクト・ウォン)にたしなめられたりもしますが、短い期間にストレンジは多くのことを身に着け、エンシェント・ワンも彼の才能を認めるようになります。

 ところで、エンシェント・ワンには、かつて愛弟子であるカエシリウス(マッツ・ミケルセン)という男がいました。カエシリウスはその後、カマー・タージを離れ、暗黒の宇宙の意志であるドゥマムゥを信奉するように。彼はウォンの前任の書庫番を殺害してエンシェント・ワンの蔵書を盗み出し、禁断の儀式を行ってドゥマムゥをこの世界に導き入れようと画策していました。

 ロンドンのエンシェント・ワンの拠点を襲ったカエシリウスの一味を、たまたまそこに居合わせたストレンジがたった一人で迎え撃つ羽目になりますが、戦闘の経験のない彼はいきなり大ピンチ。カエシリウスの部下ルシアン(スコット・アトキンス)の攻撃で瀕死の重傷を負ったストレンジは、魔術を使ってアメリカの病院に飛び、クリスティーンに助けを求めます。しかしそこにアストラル体(幽体)となったルシアンが現れ、今度こそ絶体絶命に。ドクター・ストレンジは危機を脱し、世界がドゥマムゥの手に落ちるのを阻止出来るのでしょうか・・・。

 

 というような展開で、もう現在の映像技術の限界、というような、ほかで見たこともないような映像が次々に飛び出します。スピリチュアル世界そのものを扱った内容であり、また宇宙と生命の神秘そのものを扱っているテーマでもあり、ちゃちな視覚効果では子供だまし、という感じになりかねません。マーベルがこの題材を14作目まで温めていたのも、技術的な進歩がやっと、やりたいことに追いついた、ということだと思います。

 これを見せられると、ああ、よくいう「幽体離脱」という経験は、本当にきっとこうなのだろうな、というものすごい迫真性があります。ずいぶんそのへんのスピリチュアル的知見も研究して作られた映像なのだろうと感心します。

 原作コミックでは老人の男性であるエンシェント・ワンを大胆に女性にするとか、本来、悪役であるモルドを、少なくとも最初はストレンジの最も頼れる兄貴分として設定するとか、この映画ならではの変更点がいろいろありますが、これも計算しつくされてのことと思われ、非常によく出来ているな、と思いました。

 監督はスコット・デリクソン。キアヌ・リーヴス主演のSF「地球が静止する日」がいちばんよく知られている作品でしょうが、その他の作品ではホラーやオカルト系のものが多く、ジェリー・ブラッカイマー製作の実録ホラー「NY心霊捜査官」を監督して話題を呼ぶなど、実は心霊系が得意な監督です。そんなデリクソン監督が本作に大抜擢されたのも理解できます。実際、単なるヒーロー・アクションもの、という枠では捉えられないのがこのドクター・ストレンジという作品だと思われます。

 音楽も凝っていて、全体の担当はマイケル・ジアッチーノ。スター・ウォーズの新作「ローグ・ワン」もこの人のスコアでした。ちなみにこの人、テレビゲーム「メダル・オブ・オナー」で有名になってから映画音楽の世界に参入し、「カールじいさんの空飛ぶ家」でアカデミー賞を受賞、その後も「ミッション・インポッシブル」シリーズを手掛けるなど、今、最も注目される作曲家です。また挿入曲も興味深く、手術のシーンでかかる曲はアース・ウィンド&ファイアーの「シャイニング・スター」、車の運転中に流れるのがピンク・フロイドの「星空のドライヴ」・・・ストレンジは70年代ぐらいの楽曲が好きなわけでしょうね。

 カンバーバッチの説得力ある演技はもちろん、アカデミー女優のティルダ・スゥイントンや、「ローグ・ワン」でも演技が絶賛されたマッツ・ミケルセンといった実力派が固めて、決して子供向けの浅いコミック作品という感じにしていません。非常に深遠な哲学的な作品に仕上がっております。といって、娯楽作品としても極上で、アベンジャーズ・シリーズとの絡みもしっかり配置されており(ワンシーンですが、「マイティ・ソー」のクリス・ヘムズワースも登場します)まことに良くできた作品でした。

 そのヘムズワースの登場シーンでは、ソーの弟、ロキ(トム・ヒドルストン)の名前にわざわざ言及。次作ではこのへんと絡むのでしょうか、楽しみですね。

 そうそう。マーベルの総帥で、全ての映画にワンシーンは出ているスタン・リー氏(なんと94歳)が本作にも登場! ロンドンのバスの座席で、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』The doors of perceptionという本を読んでいる老人、という役柄でカメオ出演していますよ。この本というのは、『すばらしい新世界』などで知られる作家ハクスリーが、自身のメスカリン(幻覚剤)体験を描いたもので、人間の知覚がごく制限されたものしか認識していない、ということをテーマにした内容です。同書の題名が、ロックバンド「ドアーズ」の名前の由来であるのも有名な逸話です。

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2017年1月27日 (金)

【映画評 感想】沈黙(マーティン・スコセッシ監督、遠藤周作原作)

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 マーティン・スコセッシ監督の新作「沈黙」
Silenceを見ました。「タクシードライバー」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「アビエイター」などで知られる巨匠が、原作小説を読んで感動し、実に構想開始から28年もかけて映画化した、という作品。原作は言わずと知れた日本の文豪、遠藤周作先生です。原作小説は1966年に発表、ということで半世紀前のこと。そして、遠藤氏は1996年に亡くなっていますが、スコセッシ監督は91年、遠藤氏に直に会って、映画化の許可を貰ったそうです。遠藤氏の原作は、17世紀初めの実在の宣教師をモデルとして、小説的な脚色を加えたものですが、大筋の話は史実が下敷きになっています。

 スコセッシ監督の長年の執念の実現、というもので、これは1630年代末の日本を舞台にした時代劇でもあるわけですが、日本の観客から見ても全く違和感がない、といってよいのではないでしょうか。登場する江戸時代の農民や漁民、武士たち。その身に付けている衣装や刀、昔の日本で見られた小さな馬に、馬具。完璧な時代考証に驚かされます。

 私は、中学生時代に原作小説を読んで、非常に感銘を覚えました。確か、学校に提出する読書感想文のテーマにしたのじゃなかったかと思います。キリスト教という宗教の問題だけでなく、日本という国の特殊性、異文化の理解と衝突とか、人の生き方といったところまで、その年齢なりに考えさせられた作品でした。それで、私個人の当時の印象として、途中で主人公の書簡の形から、通常の小説体、さらにオランダ商人の書簡による伝聞・・・などと視点が変わるところがあり、けっこう読んでみると分かりにくいんですよね(それは、この映画化でもそのまま踏襲されています)。また、主人公が日本に来てから各地を転々とした後、捕えられた後もあちこちに連れ出されたりして、中編なのに登場する人もどんどん入れ替わるし、シーンもかなり展開する。よって、決して難解ではないのですが、意外に文章では理解しにくい印象もあったのです。しかし、今回の映画化によって、非常に分かりやすくなったと感じました。昔、読んだシーンが頭の中でつながった気がしました。これは、そういう意味で映画化に向いた素材だったのですね。

 特に私の中では、この作品のキーマンともいえる実在の人物、井上筑後守政重(15851661)というのがなかなか視覚イメージしにくかったのですが、イッセー尾形さんが起用される、と聞いた時に「なるほど」と膝を打ちました。何を考えているのか分からない、底知れぬ狡猾さと、一見した人当たりの良さと、そして驚くほど深いキリスト教と異文化への理解・・・この謎めいた人物を視覚化するなら、確かにイッセーさんしかない、と思います。それが見事にはまっています。その他のキャストも素晴らしいです。名優リーアム・ニーソン、「スパイダーマン」で名を上げたアンドリュー・ガーフィールド(写真右)、「スターウォーズ」新作で世界的な知名度を得たアダム・ドライヴァーといった若手、それに浅野忠信、窪塚洋介(写真左)ら日本人俳優陣の頑張りも素晴らしいです。20170126235834


 

 江戸時代初め、キリシタン弾圧が強化された徳川時代の日本。

15年にわたって、日本での布教活動の指導者だったフェレイラ神父(ニーソン)が捕えられ、キリスト教を棄てた、というニュースがイエズス会に衝撃をもたらします。1640年、マカオのイエズス会指導者、ヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)は、日本に潜入してフェレイラを救出したい、と訴えるフェレイラの弟子、ロドリゴ神父(ガーフィールド)とガルペ神父(ドライヴァー)の申し出を、あまりにも危険だとして止めますが、2人の熱意を受けて許可します。

マカオにいた日本人、キチジロー(窪塚)を案内人として中国船で長崎に潜入した2人は、隠れキリシタンの住むトモギ村の村長イチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ(塚本晋也)らにかくまわれ、密かに布教活動を再開。しかし、身を潜めることしかできず、フェレイラの行方も皆目、わからない状況に2人の神父は焦り始めます。

彼らの動きはついに幕府の知るところとなり、キリシタン弾圧の責任者である長崎奉行・井上筑後守(尾形)が乗り込んできます。彼はイチゾウ、モキチ、キチジローらを捕えますが、キチジローはあっさりと棄教を認めて逃亡。イチゾウとモキチはロドリゴやガルペの見守る中、殉教してしまいます。

危険が迫る中、ガルペとも分かれて五島の山中を逃げ惑うロドリゴを、またキチジローが助けます。しかし、キチジローは、イエスを裏切ったユダのように「銀300枚」でロドリゴを裏切り、ロドリゴは役人の手に捕らわれてしまいます。

奉行所に連行されたロドリゴは、日本人信徒モニカ(小松菜奈)、ジュアン(加瀬亮)らと触れ合う中で、日本にもキリスト教がしっかりと根付いていると確信するのですが、それをあざ笑うかのように、「日本にはキリスト教は根付かない」とロドリゴに棄教を迫る通辞(浅野)、井上筑後守があの手、この手でロドリゴを揺さぶります。それは非常に狡猾で、通常の暴力的な拷問以上にロドリゴを心理的に追い詰めていきます。また、どこまでもつきまとってきて、信用すると裏切る、を繰り返すキチジローの姿も、ロドリゴに信教に対する疑問を抱かせます。そんな中、ロドリゴはガルペと、そして懐かしい師匠のフェレイラと悲しい再会をすることになります。

「神はなぜ沈黙しておられるのか? こんなにも私たちが苦しんでいるのに」根源的な疑問を抱き始めたロドリゴの運命やいかに・・・。

 

ということで、原作小説の流れを損なうことなく映画化されており、とにかく日本人としても安心して見ていられるのがすごい。ハリウッド映画にありがちな、日本語のセリフが変、などということは一切ありません。まあ、日本語のセリフ以外は、本来はポルトガル語であるべきところをすべて英語に置き換えているので、そこが興ざめではあります。いくらなんでもハリウッドの枠では、仕方ないんでしょうけどね。

本作を見ていて、おそらく本人たちもかつてはキリシタンであったと思われる通辞と、井上の言うところが妙に納得できるのが面白い。日本人としてみて、残酷な弾圧者ではありながら、その論理が非常に納得できるものに思われるのが興味深いです。要するに、お前たちの持ち込んだ宗教は、そもそも侵略の手先としての布教じゃないのか、そして、お前たちが押し付けてきたものは、あくまでもお前たちの宗教であり文化であって、現にお前らは日本と日本人のことを何にも理解していないではないか。お前らは日本を見下していて、日本語すら全く覚えようとしないじゃないか。それは傲慢じゃないか・・・という彼らの問いかけが、非常に日本人として納得できるんですね。近年でこそ、日本語堪能な外国の方も珍しくないですが、ほんの20年ほど前までは、自分は日本語が全くできないのに、日本にやって来て英語を教えてやる、という上から目線の勘違いな外国人がごく普通にはびこっていましたね。本作を見て、このへんは、外国人の観客、特にキリスト教徒の人はどう思うのでしょうか。

今も世界中で、宗教の名の下に殺し合いが続き、テロが頻発しています。人種問題やグローバリズムの限界というのも、アメリカでトランプ政権が誕生してから、ますます深刻化してきています。こういう時代にこそ、この映画は必要なのだ、というスコセッシ監督の思いが伝わってきます。30年近く、この映画化のために悩みぬき、考え抜いてきたものが、ここにきて一度に結実してきたのだろうと思われます。

日本の誇る文豪の作品が、深い理解を得てハリウッド映画化された、というのはそれだけで記念碑的な快挙ですが、とにかく遠藤周作とマーティン・スコセッシという2人の巨匠が投げかけている普遍的なテーマが圧倒的な迫力です。特に日本人こそ深く味わえる作品ですので、多くの方に見てもらいたいと思いました。

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2017年1月 4日 (水)

【映画評 感想】ヒトラーの忘れもの

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 この1月3日、
2017年の「初映画」として「ヒトラーの忘れものLAND OF MINE」という作品を観賞いたしました。新年早々に見る映画としては甚だ陰惨な内容でしたが、しかし素晴らしい作品です。ぜひ多くの方に見ていただきたい一作です。銀座・和光のすぐそばの映画館「シネスイッチ」で公開しています。

 本作はデンマーク・ドイツ合作映画でして、デンマーク語の原題はUnder Sandet(砂の下)。ドイツ語の原題は Unter dem Sand – Das Versprechen der Freiheit(砂の下―自由への約束)というもの。そして、英語のタイトルLAND OF MINEは「地雷の地」というような意味合いです。このMINE(マイン、ドイツ語読みではミーネ)は地雷を意味する単語で、本作の隠れた主役です。第2次大戦中のドイツ軍の42年型対戦車地雷Tellermine 42 (T.Mi.42)や、対人地雷SミーネS-Mineが多数、登場します。

 邦題の「ヒトラーの忘れもの」というのは、なかなか秀逸だと思います。日本の場合も、捕虜となった日本兵が旧ソ連に強制労働させられたシベリア抑留がありましたが、本作で取り上げるのは、戦後になってデンマークの地雷除去を強制されたドイツの少年兵たちの物語です。よって、ヒトラーの忘れもの、とは、ドイツ敗北後もデンマークの海岸線に残されたドイツの地雷を表すと共に、祖国ドイツから見捨てられた少年兵たちを示すともいえます。

 大戦中、北欧進出を狙ったナチス・ドイツ軍は、足場として1940年にデンマークに進駐します。この際、デンマーク王国は何もできないまま、無抵抗でドイツ軍の軍門に下ってドイツの保護国となったため、王室が海外亡命することも、国軍が徹底抗戦することもありませんでした。つまり、デンマークから見るとナチス・ドイツは普通の意味で交戦国ともいえず、非常に微妙な立場となってしまいました。

 そのため、1945年にドイツが敗北し解放されたデンマークでは、この地域を管轄したイギリス軍の意向が大きくものを言いました。戦時中、連合軍の反攻を恐れたドイツ軍は、デンマークの海岸線に、実に200万個以上の地雷を敷設しました。これを除去するのには膨大な労働力と費用、時間を要しますが、英軍はデンマークに対し、地雷の除去を国内に残って武装解除されたドイツ兵たちにやらせることを提案します。戦争の捕虜を強制労働させることは国際協定違反ですが、この場合、デンマークから見てドイツ兵は戦時捕虜といえない、というのがその根拠でした。本来、後々になって面倒な国際問題になりかねない話ですが、デンマークとしては英国の「命令」を拒否する立場にはありませんでした。

 こうして、2000人を超えるドイツ兵が戦後も(建前としては自発的に)デンマークにとどまり、危険な地雷除去作業を強制されることとなりました。ドイツ軍のデンマーク占領部隊は後方任務だったために、二線級の兵力ばかりでした。ゆえに強制労働させられた兵士たちはプロとは言えず、ほとんどがヒトラー・ユーゲント(ヒトラー少年団)から徴兵され、急ごしらえで編成された国民擲弾兵Volksgrenadierに属する1318歳の少年兵たちだったと言います。

 デンマークとしては、自分たちの国の戦時中の不甲斐なさや、ドイツ軍への憎しみ、そして英国への卑屈な感情・・・さまざまなものが交じり合ったため、少年兵たちは歪んだ憎悪のはけ口の対象となり、1000人を超える者がここで悲惨な最期を遂げたそうです。

 

 1945年5月、ナチス・ドイツが降伏し、デンマークのドイツ兵たちも武装解除されて祖国に戻っていきます。その中に、ドイツ兵への憎しみを露わにするデンマーク軍のカール・ラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)の姿がありました。

 デンマーク陸軍の工兵指揮官エペ大尉(ミケル・ボー・フルスゴー)は、ドイツの少年兵を集めて、地雷除去作業の訓練をさせます。慣れない仕事であり、すでに訓練中に地雷で爆死する者も出る中、エペは非情に少年たちをしごきます。

 そして、ある海岸に配属された11人の少年たちを監督することになったのが、エペの部下であるラスムスン軍曹でした。ラスムスンは、海岸に埋められた地雷をすべて除去したら、祖国に帰してやる、と少年たちに約束します。少年兵の中でも、将校だったヘルムート(ジョエル・バズマン)と人望のあるセバスチャン(ルイス・ホフマン)の間で対立が深まり、まともに食料も配給されない中、病気や飢え、疲労が重なり、やがて地雷で爆死する者もあらわれます。この過酷な状況を見て、初めはナチスに対する憎しみにかられ、彼らに辛く当たっていたラスムスンも、一人の人間として疑問を抱き始めます。祖国の戦争犯罪の償いをこの少年たちだけに一身に負わせる一方、自分たちはなんの責任も負わないデンマーク軍部の方針に、です。

 多くの犠牲を払いながら、ついにその海岸の地雷除去を完了した少年たちに、悲劇が待ち受けていました。さらに、少年たちへの「自由の約束」を踏みにじるような事態に・・・。少年たちは本当に祖国に帰ることができるのでしょうか。そして、最後にラスムスン軍曹がとった意外な行動は・・・。

 

 ということで、ひたすら陰惨なお話なのですが、デンマークの海岸線は抜けるように青い空と海、白い砂浜が広がっており、対照的なトーンです。本作は各映画賞で絶賛され、東京国際映画祭でも「地雷と少年兵」という仮タイトルで上映されました。アカデミー賞海外作品賞の候補作品にもなっています。

 衣装デザインも各賞を受賞するなど評価されていまして、少年兵たちの服装や、デンマーク軍兵士の軍装なども非常によくできています。

 まず、ラスムスン軍曹はデンマーク軍の兵士でありながら、英国軍空挺部隊の赤いベレー帽に、空挺部隊の徽章を付けた英国のバトルドレス(戦闘服)を着て、連合国を意味する星のマーク(本来、米軍のマークですが、この時期には西側連合軍一般を示す標章として使用されました)を付けたジープを乗り回しています。彼の立場は独特で、おそらく戦時中は英国に亡命して英軍兵士として戦い、エリート部隊である空挺部隊で活躍、祖国に英雄として帰ってきた、という設定です。だから、戦争中も何にもできずに傍観していたと思われる上官のエペ大尉やほかの軍人が、デンマーク軍の通常軍服を身に付けているのと際立った対照を見せています。ラスムスンと、他のデンマーク軍の将校たちとは微妙な力関係にあります。ラスムスンは軍人としては下士官に過ぎない一軍曹ですが、ドイツ軍との実戦を経験し、戦勝国の兵士として凱旋した人間であり、戦時中に何もしなかった軍部の上官たちに対しても物怖じしません。一方、エペ大尉たちの方も、英国帰りの軍曹に屈折した感情を抱いており、煙たく思っています。そのへんの人間関係も、この作品を深いものにしています。

 少年兵たちは当然、いろいろな部隊から集められた、という設定であり、同じ少年兵と言っても、国民擲弾兵の腕章を付け、立派な正規軍将校用の軍服に少尉の階級章を着けているヘルムートと、まだヒトラー・ユーゲントの黒いスカーフを首に巻いているセバスチャンの服装の対照性など、その人の立場を示す細かい設定がなされています。

 出演者たちは、長編映画初主演のムラをはじめ、ほとんどが無名の新人です。特に少年兵役にはドイツでキャスティングされ、全く演劇経験のない子供たちも含まれますが、そこに非常にリアリティーがあります。慣れない任務に駆り出される経験不足の少年兵、という役柄そのままだからです。

 ドイツの少年兵の悲惨を扱う映画では、過去にも名作「橋(ブリュッケ)」がありましたが、本作で扱うのは、戦後になってドイツとデンマークの友好関係の中で、両国のどちらの国民からもタブー視され、やがて完全に忘れ去られてしまった「不都合な真実」です。これを世に暴き出した問題作として、大きな反響を呼んだものです。

 なお、本作で名を上げたマーチン・サントフリート監督、次回作はなんと日本を舞台にするそうです。アカデミー俳優ジャレッド・レトや、浅野忠信を主演に据えて製作中で、今度は日本の戦後を背景にしたものになるとか。それはぜひ見てみたい作品ですね。

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2016年12月29日 (木)

【映画評 感想】ローグ・ワン(追悼:キャリー・フィッシャーさん)

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 キャリー・フィッシャーさんがこの27日、急逝されましたね。享年
60歳。昨年、スター・ウォーズのエピソード7でレイア・オーガナ姫として奇跡のカムバックを果たし、今後もエピソード8、9と活躍されるはずでしたが、まだ若いのに・・・。ご冥福をお祈りします。(追記:キャリー・フィッシャーさんの母親で「雨に唄えば」などで知られる往年の大女優、デビー・レイノルズさんが28日に84歳で急逝されました。27日に亡くなった娘キャリーさんの葬儀について親族と協議中に倒れ、亡くなったそうです。お嬢さんの突然の死に大きなストレスを受け、後を追うように逝かれたようですね。2016年12月29日)

 そんな訃報が届いた28日、スター・ウォーズのシリーズ最新作「ローグ・ワンROGUE ONE」を見ました。もちろん、初めからこの日に鑑賞するつもりだったので、フィッシャーさんの訃報と重なったのは偶然でしたが、この作品のエンディングには、若き日のレイア姫が登場します。CG処理で若い日の容貌を再現しているようですが、まさに最盛期のレイア姫と再会できて、胸が詰まりました。

 なんで、若き日のレイア姫が登場するのか、といえば、この「ローグ・ワン」という作品は、これまでの正統な「エピソード1」に始まるシリーズの歴史の中で、まだ描かれていない隙間の時代の真相を描き出す新しい試み「スター・ウォーズ・ストーリーA STAR WARS STORY」の一作目だからでして、本作はエピソード4(つまりシリーズの第一作)の直前の時代、帝国と反乱軍の全面戦争が始まる時期を取り上げております。

 第一作の冒頭、レイア姫はダース・ベイダーに追われて逃げており、R2D2に帝国の究極の最終兵器「デス・スター」の設計図を託して、オビワン・ケノービの助力を得ようとします。そこにルーク・スカイウォーカーやハン・ソロが絡んできて、おなじみのシリーズが始まっていきます。第一作というのは、いかに反乱軍が難攻不落の要塞デス・スターを破壊するか、ということで終始した作品でした(もしシリーズ化されずに、あの一本で終わっても違和感がないような起承転結になっていましたね)。

 しかしでは、その設計図というのは、どうして反乱軍側の手に入っていたのでしょうか? ダース・ベイダーが死に物狂いで追いかけるほどの機密情報が、なぜ? その「なぜ」という部分を解き明かすのが、本作なわけです。そうそう。デス・スターの司令官といえば、おなじみターキン総督ですが、こちらも1994年に亡くなっているピーター・カッシングの顔をCGで再現して登場しています。今の技術だと、故人でも映像で「復活」させることが可能なのですね。

メガホンを執ったのはハリウッド版「ゴジラ」(2014)で知られるギャレス・エドワーズ監督。原案ジョージ・ルーカス、脚本は「シンデレラ」のクリス・ワイツ。

 

 帝国では最終兵器デス・スターの製造が遅々として進みませんでした。建造の責任者である帝国軍先進兵器開発局のクレニック長官(ベン・メンデルスゾーン)は、開発途中で任務を放棄して隠遁してしまった旧友の科学者ゲイレン・アーソ(マッツ・ミケルセン)に、開発計画に復帰することを強要。この際、抵抗した妻のライラは死に、一人娘のジン・アーソは逃げ延びて、父ゲイレンの友人で、反帝国ゲリラの首領であるソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に救い出されます。

 それから15年後。帝国軍の労働収容所に捕らわれの身となっていたジン(フェリシティ・ジョーンズ)は、反乱軍の部隊に救出されます。というのも、帝国の技術者として兵器開発に当たっている父ゲイレンからメッセージを託された帝国軍の脱走パイロット、ボーディー(リズ・アーメット)が、惑星ジェダのソウ・ゲレラの下に身を寄せたとの情報があったからです。しかし、同じ反帝国の立場でありながら、反乱軍は過激な闘争路線を貫くゲレラとは疎遠でした。そこで、ゲレラが娘同然に育てたジンを彼に接触させ、ゲイレンの情報を聞き出そうと考えた反乱同盟は、情報将校キャシアン(ディエゴ・ルナ)と、ドロイドK-2SO(モーション・キャプチャー:アラン・デュディック)を同行させたうえで、ジンをジェダに送り込みます。

 ジェダで、盲目の戦士チアルート(ドニー・イェン)、その友人のベイズ(チアン・ウェン)を仲間に加え、帝国軍の追及を逃れたジンたちは、ソウ・ゲレラと会うことができ、ジンは父からのメッセージを受け取ります。それは、父ゲイレンが長年にわたって帝国に従うふりをしてデス・スターに重大な弱点を仕込んだ、という極秘情報でした。しかし、その弱点を正確に衝くには、デス・スターの設計図が必要です。

 同じころ、帝国の最高幹部である野心家ターキン総督(CG:ピーター・カッシング)は、クレニックを呼び出し、脱走兵ボーディーによる情報漏洩と、デス・スター開発の遅延についてくどくどと叱責していました。ターキンがこの件の手柄を独り占めしようとしていることを悟ったクレニックは、皇帝に直接、拝謁する機会を得るべく、デス・スターの試験射撃を実施することにします。その標的は、ボーディーが身を潜めた惑星ジェダでした。

 デス・スターの一撃でジェダは壊滅。危うく難を逃れたジンたちは、ゲイレンがいると思われる帝国軍研究所がある惑星イードゥーに向かいます。ジンはここで、懐かしい父と再会しますが・・・。

 これまで得た情報を基に、デス・スターの脅威と、その弱点について惑星同盟の評議会に力説し、ただちに戦闘を開始するよう求めたジンたちですが、この期に及んで帝国軍との全面戦争になることを恐れた評議会は意見が決裂。やむなく、正式な命令を得ないまま、ジンとキャシアンを始め少数の仲間たちは、特攻隊を編成して、デス・スターの設計図がある惑星スカリフの帝国軍要塞に潜入することに。基地を発進する際に、オペレーターから「そちらのコールサインは?」と聞かれたボーディーは、その場の思い付きで「はぐれ者の第1号部隊」つまり「ローグ・ワン」と名乗ります。かくて、生還を期し難い決死の作戦に、ローグ・ワンの面々は挑むことになります。

 そのころ、デス・スターをめぐる一連の動きを苦々しく見ていた一人の人物がいました。帝国の大立者で、皇帝の側近であるかつてのジェダイ、アナキン・スカイウォーカーこと暗黒卿ダース・ベイダー(声:ジェームズ・アール・ジョーンズ)その人です。クレニックの不手際と独断専行を厳しく叱責したベイダー卿は、自らこの件に介入する必要性を感じ始めていました・・・。

 

 ということで、これはもう典型的な、1960年代あたりに盛んに製作された、ドイツ軍の要塞に潜入して、自らの命と引き換えにしても連合軍を勝利に導く・・・というパターンの特攻隊もの、決死隊もの戦争映画そのものです。さらにまた、盲目の武芸の達人や甲冑のような装備を身に付けた荒武者のような登場人物、壮絶な死闘・・・と、日本人の心の琴線に触れる時代劇の王道パターンにもぴったりとはまります。原案のジョージ・ルーカスがあまたの戦争映画や時代劇映画を見て影響を受けていることは有名ですので、もう私のような、そういう作品が大好きな人間としては、まさにツボにはまった一作です。はっきり言って、今までのSWシリーズでいちばん、感動的だったとすら思います。

 そして、大戦争の緒戦であるために、強い帝国軍の描写が生き生きとしております。ターキン総督の元気なお姿を拝することができたのはもちろん、なんといってもダース・ベイダーが元気で強い。後の作品では、だんだん衰えていくベイダーの晩年が描かれていたわけですし、エピソード1~3では逆に完成前の姿でしたから、暗黒卿としての全盛期の姿を描いたのは本作が初めてかもしれません。いやもう、強い、強い。惚れ惚れします。改めて、やっぱりダース・ベイダーさんがいないとこのシリーズは盛り上がらないな、と思いましたね。声を当てているのも一作目からの名優ジェームズ・アール・ジョーンズ。あのダース・ベイダーが帰ってきた、という感じでした。

 そして、最後に出てくる若き日のレイア・オーガナ姫。フィッシャーさんの悲報に接した直後なので、思いもひとしおでした。

シリーズとしては外伝的な位置づけなのですが、特に第一作(エピソード4)が好きな方は、これを見ない手はありません。お薦めの一作ですね。

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2016年12月 9日 (金)

【映画評 感想】五日物語-3つの王国と3人の女-

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 「五日物語-3つの王国と3人の女-」
Tale of Talesという映画を見ました。イタリアの鬼才マッテオ・ガローネ監督が描く17世紀初頭(日本でいえば江戸時代の初め)を舞台としたダーク・ファンタジーです。原作は、ナポリ王国の傭兵から詩人となったジャンバティスタ・バジーレ(15751632)が書いた世界最初の「おとぎ話集」です。「白雪姫」や「シンデレラ」「眠れる森の美女」「ラプンツェル」「長靴を履いた猫」など、後の時代にグリム兄弟やペローなどがまとめた有名なおとぎ話の原話のほとんどが、この五日物語(ペンタメローレ)に収められているそうです。

 原作本は、ある君主が五日間にわたって、毎日、十話ずつ面白い話を話させる、という形式で五十話の昔話が集められています。その中に、たとえば後のシンデレラにつながる「灰被り姫」(ツェネレントラ)といった物語があったわけです。

 それで、この映画では、あまり一般に知られていない「魔法の牝鹿」「生皮を剥がれた老婆」「ノミ」の三つの物語をベースとし、大胆にアレンジ。隣り合う三つの王国の物語として再構成しています。オムニバス形式ではなく、いずれも同時代の隣国の話で、直接のかかわりはないけれど話が交差し、最後には一つのエンディングに結びつく巧みな脚本になっております。

 

 不妊に悩むロングトレリス王国の王妃(サルマ・ハエック)と国王(ジョン・C・ライリー)の下に一人の魔術師が現れます。子宝を授かる方法を伝授された夫妻は、その教えに従い、国王は海に潜って海中の化け物を退治しますが、自分も命を落とします。王妃は魔術師に言われた通り、化け物の心臓を貪り食い、ただちに妊娠します。しかしなぜか、心臓を調理した下女も同時に妊娠。こうして、全く同時刻に王妃にはエリアス(クリスチャン・リーズ)という王子が、下女にはジョナ(ジョナ・リーズ)という息子が誕生します。

 それから16年後、エリアスとジョナは兄弟でもないのに、瓜二つの容貌に育ちます。下女の息子と兄弟のように交わるエリアスに対し、王妃の怒りが爆発します。やむなくジョナは城を出て行くことになりますが・・・。

 

 その頃、隣国であるハイヒルズ王国の国王(トビー・ジョーンズ)は、王妃に先立たれて一人娘のヴァイオレット王女(ベベ・ケイヴ)と暮らしていますが、父王は娘の気持ちに鈍感で、自分の趣味に没頭する子供じみた性格。ある日、一匹のノミに魅了され、それを溺愛して飼育するうちに、ついにはノミであるにもかかわらず、人間を上回るほど巨大に成長してしまいます。そんな変わり者の父親に束縛される生活を窮屈に思ったヴァイオレットは、結婚して城を出て行きたいと懇願します。

 しかし、娘を手放す気などない国王は、思いがけない方法で娘の夫選びをすることを宣言します。この国王の気まぐれのために、王女の夫と定められたのは、なんと山奥に住む恐ろしい人食い鬼でした・・・。

 

 さらに別の国、ストロングクリフ王国の国王(ヴァンサン・カッセル)は好色のために、王宮はハーレム状態。ある日、城下から美しい女性の歌声が聞こえてきます。その美声に聞きほれた国王は、声の主が住むあばら家に出かけ、想いを遂げようとします。

 実は、その美声の主は醜い老婆であるドーラ(ヘイリー・カーミッシェル)で、妹のインマ(シャーリー・ヘンダーソン)と2人でつましく暮らしていたのでした。しかし、インマの心配をよそに、国王の誤解に基づく申し出を一世一代のチャンスと考えたドーラは、暗闇の中で、という条件付きで王と一夜を共にします。ところが王は、ドーラが実は老婆であることに気付くと激高し、城の高窓からドーラを突き落とします。裸で傷を負い、泣いているドーラを見て、通りすがりの魔女が魔術をかけてくれます。こうしてドーラは若さを取り戻し、絶世の美女(ステイシー・マーティン)に生まれ変わります。たちまち国王の寵愛を得て、正式に王妃に迎えられることとなりますが、婚礼の場に招かれたインマは、美しく若返り権力を手にした姉に激しく嫉妬します・・・。

 

 というようなことで、三つのお話が進行していくわけですが、主に三つの王国の3人の女性の欲望や無知、執着心といったものから、人間の醜さ、弱さがあぶり出されていく展開で、お話としては極めて陰惨・残酷で救いがありません。カラッとして分かりやすく、爽快なハリウッド映画に慣れた人にはとっつきにくいでしょうが、そこはイタリア人監督による、美意識に満ちた作品です。いわゆる合理的な分かりやすさを求めてはいけないのだと感じます。別に難解な、哲学的な話はないのですが、すっきりと腑に落ちる謎解き、といったサービス精神は全くないと言ってよく、見る人の解釈や感性に多くを委ねる作風です。

 特に、中世のヨーロッパのおとぎ話などは、そもそもダークで不条理で、意味不明な展開になる場合もしばしばあるもので、本作はそういう中世的な要素から免れる考えなど、初めからないのだと思います。

 とにかく、この作品で最も見るべきは「美意識」そのものなのではないか、と思います。合理性という病に侵される前の時代の過剰な美。それ自体がテーマなのではないかとも思えます。13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(後の時代のプロイセン国王、フリードリヒ大王と同名ですが別人です)が築いた世界遺産、デルモンテ城や、断崖にそびえるロッカスカレーニャ城など、イタリアが誇る国宝級の城塞の数々でロケが敢行されております。

さらに登場する人々が身にまとうのは、まさに17世紀初頭のダブレットや半ズボンにタイツ、襟飾りといった歴史上でも最も華麗に男女が着飾った時代の装束。衣装デザインを担当したマッシモ・カンティーニ・パッリーニは、「ヴァン・ヘルシング」や「ブラザーズ・グリム」といった史劇でアシスタントとして修業を積み、本作では素晴らしいコスチューム・デザインが評価され、4つの衣装デザイン最優秀賞を受賞して注目を集めているそうです。やはりこの作品でとにかくすごいのは豪華絢爛たる衣装でして、これだけで一見の価値があると思います。

監督自身、「僕のアプローチはアメリカ的な映画とは対極にある」とパンフレットで述べています。英語を使っており、英語圏の出演者が多いのですが、絶対にハリウッドからは生まれない作風で、とにかくヨーロッパ、イタリアの美を感じさせる映画です。そういうものが好きな方には必見の一作と思います。

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