2017年6月24日 (土)

【映画評 感想】キング・アーサー

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 ガイ・リッチー監督の「キング・アーサー」
King Arthur: Legend of the Swordという映画を見ました。これまでロバート・ダウニーJr.を主演に据えた異色の「シャーロック・ホームズ」シリーズを成功させた同監督のこと、英国をはじめ欧米文化圏の人にとってはあまりにも有名な「アーサー王伝説」を、かなり自由に解釈した作品となっております。

これまでに何度も映像化されてきた題材で、近年で言っても、2004年の同名作品はクライブ・オーウェンと、当時まだ10代だったキーラ・ナイトレイの共演で話題を呼びました。それだけに、思い入れが強い海外のお客さんの間では、このガイ・リッチー版の個性の強い作風について賛否両論あったようです。

我々、日本人からしてみると、そもそもアーサー王は(モデルになった話はあるにしても)史実と言うよりファンタジーの題材であって、指輪物語やホビットと大差ないように思われるので、特に違和感なく見られるのではないかと思いました。ただ、それにしても、通常、流布している伝説では5~6世紀ぐらいが舞台の話であるのに、北欧のバイキングが現在の英国やフランスに攻め込んできた8~9世紀になっているとか、あの時代にはちょっと考えがたい東洋人の武術の名人がいるとか、というあたりはご愛嬌ですが、さらに設定面で、本来はアーサー王の父違いの義姉の息子、つまり甥(であると共に、実はアーサーと姉との不義の子)として登場し、最後に激しく対立する騎士モルドレッドが、敵の魔法使いとしていきなり出てくるとか、普通はアーサー本人以上に活躍する大魔術師マーリンがほとんど登場せず、その代わりに弟子を名乗る女魔術師が一人登場するだけとか、アーサーの祖父の逆臣として語られてきた王位簒奪(さんだつ)者ヴォーティガンが、今回は父の弟、つまり叔父さんであるがゆえに、話としてはむしろハムレットになってしまったとか・・・おそらくこのへんが、欧米の熱心なアーサー王ファンからは、あまりよく思われなかった点の一端かとも思います。

とはいうものの、先ほども申しましたが、そもそもアーサー王伝説自体が荒唐無稽といっていい話なので、ファンタジー好きの日本人の一人として、私などが虚心に見る限りに於いて、なかなか面白い作品になっていると思いました。上に挙げた変更点も、それで盛り上がっているとも見えますので、映画表現として否定するようなことでもないと感じます。ただ、聞いた話では、本当はマーリン役にイドリス・エルバを迎えたかったのだが、断られたために、マーリンの出番がほとんどなくなった、などと聞きますが、それが本当なら、ちょっとショボイ感じは否めませんね・・・。

 

ブリタニアの王であり、聖なる剣エクスカリバーの使い手ユーサー・ペンドラゴン(エリック・バナ)は、弟ヴォーティガン(ジュード・ロウ)や騎士ベティヴィア(ジャイモン・フンスー)らと力を合わせ、キャメロン城に攻め寄せた悪の魔術師モルドレッドを倒します。しかしその後、兄の存在を疎ましく思い始めたヴォーティガンは、邪悪な魔道の力を用いて兄夫妻を殺し、王冠を手に入れます。幼い王子アーサーは逃げ延び、ロンディウム(現在のロンドン)のスラムにある売春宿で孤児として育てられます。

それから年月が流れ、ヴォーティガン王は自らの野心のまま、国民を虐げ、巨大な魔術の塔を建造しています。しかし、その工事中に城の近くの湖が干上がり、湖底から、岩に刺さったまま抜けなくなっている聖剣エクスカリバーが発見されます。ヴォーティガンの悪政にうんざりしていた国民の間で、聖剣を岩から引き抜ける者こそ、真の国王であり、行方不明になっているアーサー王子だ、という噂が瞬く間に広がっていきます。

ヴォーティガンと手を組んで軍事力を提供する密約を結んだバイキングの指揮官グレービアード(ミカエル・パーシュブラント)と町でトラブルを起こしたアーサー(チャーリー・ハナム)は、捕らえられて聖剣のあるところへ連行されます。国中の若者がこの剣を岩から抜けるかどうか試すように、国王の命令が布告されていたのです。軍人トリガー(デヴィッド・ベッカム)が見守る中、アーサーは剣を握ります。周囲の人々が驚いたことにそれは岩から引き抜かれ、強烈なエネルギーを感じたアーサーは気絶してしまいます。

アーサーは、叔父であるヴォーティガンと対面します。当然ながら、その結論はアーサーを「偽物」として公開処刑する、というものでした。そのころ、反ヴォーティガン闘争を続けているベティヴィアの下を、一人の謎めいた女性(アストリッド・ベルジュ=フリスベ)が訪れます。彼女はただ、大魔術師マーリンの弟子メイジ(魔術師)と名乗り、ベティヴィアにアーサーを救い出し、協力するよう告げます。

ヴォーティガンの面前で、アーサーはメイジやベティヴィアの手により脱走に成功しますが、スラムで育ったアーサーには全く自覚がなく、暴君を倒すことにも、王位を継ぐことにも興味がない様子。そこでメイジはアーサーをダークランドに導きます。そこに行けば、アーサーは両親が命を落としたあの日、何が起こったかを思い出すはず。しかしその真実は、アーサーにとっては思い出したくない辛く悲しい記憶なのでした・・・。

 

というような展開ですが、ガイ・リッチー監督らしく、映像のフラッシュバックで前後の話を強引に進める手法があちこちに使われており、はっきり申して、おそらく予備知識がないとストーリーがよく分かりません。登場人物も多く、そのへんの取っつきにくさもやや敬遠された理由かな、という感じも抱きました。ただ、そういう実験的な手法はファンタジーと相性は悪くなく、むしろ世界観をよく表現しているという評価も出来そうです。このへんは好き嫌いが分かれるかもしれません。

「パシフィック・リム」や「クリムゾン・ピーク」で名を上げてきたチャーリー・ハナムとしては、170億円を超える予算の超大作に満を持しての登場、というところなのでしょうが、何かアーサー王としてのカリスマ性は弱い印象も受けました。アーサー王の話は、水戸黄門的なカタルシス、つまり、スラムで育ったけれど本当は王子、という貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の要素がほしいところで、「実はすごい人だった」というのが前半の苦労と落差があるほど効果的なのですが、この作品のアーサーはずっと現代的な不良の兄チャン、という感じがして、そういう演出が新しいアーサー像ともいえるのでしょうが、ちょっと重みに欠ける感じはあります。

一方、ガイ・リッチー監督とは「ホームズ」のワトスン役で縁のあるジュード・ロウ。今回は悪役に徹して見事な存在感です。それから父ユーサーを演じたエリック・バナも久しぶりに「ブーリン家の姉妹」以来の王様役ですが、はまっています。この2人は、確かに王様に見えるのですけど、チャーリーのアーサーには最後まで、何かが「ない」んです。王者としてのオーラとか風格というものでしょうかね。

それからメイジという謎の役柄のベルジュ=フリスベは非常に味がある女優さんで、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の前作では人魚を演じて評判になりました。本作では、いかにも謎めいた背景がある魔術師という感じです。結局、この作品では何者か分からないままで終わってしまうのですが、後のアーサー王妃グイネビアにあたる人物のようでもあり、あるいはアーサーを悩ませる義姉であり魔女のモルガン・ルフェイのようでもあり、なんだかはっきりしませんね。またマギーという国王の侍女が出てきます。劇中ではかなり重要な役柄ですが、これを演じたアナベル・ウォーリスは、奇麗な女優さんです。この人、まもなく公開のトム・クルーズ主演映画「マミー」でも活躍しているそうです。

そして、今作で話題になったのが、あのサッカー選手デヴィッド・ベッカムの映画デビュー作だったということ。まあ、ちょい役なわけですが、けっこうセリフもあり、なかなか演技も悪くないようで、興味深いところです。

総括すれば、いろいろ分かりにくい面もあるのですが、ファンタジー作品としては秀逸な一作だと思います。元ネタに思い入れが薄い日本人が、先入観を持たず見れば、大いに楽しめる一級の娯楽作品だと思います。

 

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2017年5月27日 (土)

【映画評 感想】メッセージ

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 今年のアカデミー賞は、大本命の「ラ・ラ・ランド」に対して、社会派ドラマの「ムーンライト」(ノミネート8、受賞3)と「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(ノミネート6、受賞2)が対抗という決選になりました。特に対抗の2作品は、米大統領選挙のトランプ旋風という背景があって、黒人の同性愛者を描くムーンライト、いわゆる非エリートの白人を取り上げたマンチェスター・・・が注目されたのは間違いありません。ラ・ラ・ランド自体も、そうした中で
14ノミネート中、6部門受賞にとどまった感じはあります。もちろん、社会派の2作品の素晴らしさに異論はないのですが、あくまで賞レースとしてはそういう展開になった、ということです。

 それで、そういう非常に現実政治的な環境で、最も割を食ったと思われるのが、有力候補の中で唯一のSF作品だったこの「メッセージ」Arrivalであります。8部門ノミネートされて、結果的には音響編集賞ひとつだけ、ということになりました。しかし、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の才能が隠れもなく発揮されている傑作でして、本当に、もう少し平穏な年の賞レースだったなら、と思わせる一作です。

 とにかく静謐な迫力に満ちています。これ見よがしな派手な演出は一切なく、非常に淡々と、しかし実況のように真に迫って描く本作は、久々に見た硬派なSFで、2時間あまりが一瞬も緊張の途切れることなく過ぎ去ります。「2001年宇宙の旅」や「インターステラ-」「惑星ソラリス」に似ているという声がありましたが、その通りでしょう。またSFではなく、心霊的な世界を取り上げた「シックス・センス」に似ている、という評もありますが、これも結末まで見ると、なるほど、的を射ています。

 原題は「到着」の意味です。突然、地球に異星人の宇宙船が到着する、というのが話の発端ですが、それだけを聞くと、さんざん今までにあったSF作品のありがちなテーマか、と思うところです。しかしとんでもない。突如、巨大な宇宙船がやって来る、ということなら「インデペンデンス・デイ」や「宇宙戦争」と同工なわけですが、今回はああいう分かりやすい侵略もの映画とは異質です。本作の異星人は、そもそも敵なのか友人なのか、何をしに来たのか意図が分かりません。そして、SFものによくある、異星人がたちまちテレパシーで交信して来るとか、自動翻訳機で流暢な地球の言葉(大抵は英語)を操る、などということもありません。地球人は彼らと何とかして、相互理解を図らなければならない。万一失敗したらどうしようか。誤解を与えたり、相手を怒らせてしまったりしたら。そういう緊張のあまり、主人公たちは心身の不調を訴え、極限状態を味わうことになります。異世界の住人との意思疎通がどれほど困難なものであるかを、あくまでもリアルに描き出していく本作は、ひょっとすると国内のコミュニケーションすらうまくいかないドナルド・トランプ大統領に、今いちばん見てもらうべき作品なのでは、とすら思われるのです。

 

 著名な言語学者のルイーズ・バンクス博士(エイミー・アダムズ)は、一人娘のハンナを難病で失い、心の傷が癒えないまま空虚な日々を送っています。

ある日、大学でいつものように言語学の講義を始めようとすると、学生たちの数が妙に少なく、教室内にいる生徒の様子もおかしいことに気づきます。テレビを付けてみると、信じられない光景が映っていました。世界の12か国(その中には日本の北海道も含まれます)に1隻ずつ、異星人の巨大な宇宙船が到着し、大騒ぎとなっていたのです。

 まもなくアメリカ陸軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)がやって来て、モンタナ州に飛来した異星人の声を聞かされます。それだけでルイーズに意味が分かるわけがなく、結局、実際に異星人と会見し、その言語を理解して、彼らが地球にやってきた意図を探り出すことを依頼されます。数学者のイアン(ジェレミー・レナー)も加わり、ウェバー大佐とマークス大尉(マーク・オブライエン)ら米陸軍の軍人が見守る中、異星人との接触が始まります。

 異星人は七本足のためにヘプタポッドと呼ばれています。その宇宙船でルイーズたちアメリカ人と会うヘプタポッドは2体で、イアンは往年のコメディアン・コンビの名前から「アボット」と「コステロ」という愛称をつけます。彼らの発声言語は理解不能で、一方、書き言葉の方は、地球の漢字のような表意文字であることが判明します。少しずつ時間をかけて、彼らの意思を探るルイーズとイアンですが、ヘプタボッドの言語には時制という概念がなく、過去も現在も未来も、同じものとして認識していることが分かってきます。そして、なぜか彼らの言語が理解出来るようになるほどに、ルイーズには、亡き娘、ハンナの幻影が以前よりも強く蘇るようになってきます。

 そしてついに、ルイーズは彼らに「地球に来た目的は何か?」と質問します。帰ってきた答えは「武器を与える」でした。

武器という言葉が、人々を動揺させます。世界中は混乱し、異星人の存在に怯え、容赦なく撃退すべきだという声も聞かれるようになります。やがて、12の国はそれぞれ疑心暗鬼となり、初めは協力し合っていたのに、お互いに通信を絶つ事態に。中でも、中国人民解放軍の司令官シャン上将(ツィ・マー)は、ただちに異星人に宣戦布告し、攻撃を開始すると宣言。事態が緊迫する中、錯乱したマークス大尉は宇宙船に爆弾を仕掛けようと企みますが・・・。

 

 本作の異星人は、我々とは時間というものの捉え方が異なります。原因があって結果がある、という因果関係の法則が支配する、この3次元時空を生きていないようなのですね。そんな彼らの言語を、言語学者が会得していく内に、当然ながら、思考回路もその言語に影響されて変化していく。外国語を真剣に学ぶと、誰しも思い当たる現象ではないでしょうか。明らかに、日本語で考えるのと、中国語で考えるのと、英語で、ドイツ語で、ロシア語で考えるのは違うことである、と。バイリンガルという人たちは、言語を切り替えるたびに、頭の中の基本システムを変更しないと思考出来ない、といいます。

 最終的にルイーズの認識が大きく変革するような事態となっていきます。そして、中国軍の司令官、シャン上将(上将というのは、他国の大将にあたる階級)が意外な形でルイーズの物語と絡んできます。このへんのスリリングな展開は見事です。

 ディズニー映画「魔法にかけられて」のお姫様役で一般に知られるようになってから後、演技派女優として大活躍のエイミー・アダムス。今回は、特に異星人とファースト・コンタクトする際のあまりにも重い責任感と恐怖で潰れてしまいそうなヒロインの心情を見事に描き出しています。初めは印象が悪いけれど、実は頼れる男、ジェレミー・レナーもいい仕事ぶりです。アカデミー賞俳優のフォレスト・ウィテカーが、厳しい軍規と人情の間で微妙に揺れる高潔な軍人役を好演しております。

 本作は、原作小説があるわけですが(そして、原作者が中国系アメリカ人であることを知ると、ヘプタポッドの感覚や、その用いる文字がなんとなく東洋風であることも理解出来てきます)映像化という面では、かなり難しい作品だと思われます。よくこれを描ききったものですが、次回作として「ブレード・ランナー」の続編を製作中のヴィルヌーヴ監督、きっとSF史に残る傑作を作ってくれるのでは、と期待されますね。

 それにしても。確かにこの作品の半月型の宇宙船はスナック菓子「ばかうけ」に似ています。ヴィルヌーヴ監督がちゃめっ気たっぷりに「日本の皆さんもお気づきのように、本作の宇宙船の形状は『ばかうけ』を参考にしました。本当だよ!」と明るく冗談を飛ばす映像を見ましたが、こういうユーモアもある監督であることを知ると、また作品の持ち味が異なって見えてくる気がします。

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2017年4月29日 (土)

【映画評 批評】美女と野獣

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 映画「美女と野獣
Beauty and the Beast」を見ました。いうまでもなく1991年の同名の大ヒット・アニメ映画の実写版です。使用している楽曲も、基本的な筋立てや登場キャラクターも91年版のまま。では、どうして今、実写化したのか、と思うところですが、見てみるとなるほど、と思います。つまり、91年版を制作した人々が本当に見たかった映像は、こういうものだったに違いない、しかし当時の技術では、アニメにするしかなかったのだな、という事実です。要するに、人々の想像力に映像技術が追いついた、ということです。

 たとえば、今回の作品では、主人公である野獣が、非常にこまかい感情表現を顔の表情で示します。表情で喜怒哀楽を微細に表す。しかし、一昔前の着ぐるみでは絶対にできなかったことですね。下手なものをやると、そこで興ざめになってしまう。1946年のジャン・コクトー版「美女と野獣La Belle et la Bête」の野獣は、特殊メイクでなかなか健闘していましたが、あれも白黒画面だから通用した感が強いです。

原作アニメでは、野獣がベルの一挙一動に、怒ったり、すねたり、いじけたり、喜んだり、最後には惚れ込んで夢中になったり・・・そのへんの心理の変化がアニメ的手法で表情豊かに描かれ、それが重要なわけでした。今回は、ファンタジックな世界観と、実写のリアリティーを両立させる、それにより、これが文字通り、絵空事ではないリアルである、と見ている人をこの世界に連れ込んでしまう迫真力。30年近い年月が、そんなことを可能にする技術革新を実現したわけです。野獣役のダン・スティーブンスは、まず全身の動きのモーション・キャプチャーを撮り、さらに表情だけに絞った演技をもう一度、撮影したそうです。そういう努力を経て、実現したこの映像のすばらしさ。

 ゆえに、今作はあくまでも91年版を実写化した、あのイメージを大切に再現した、というスタンスを貫いています。昔のまま、であることに意味があるわけです。下手な小細工は求められていない。当初案では、ミュージカル要素を廃して、ストレートな芝居にするという計画もあったようです。つまり、より現実的な実写で、アニメとは全く違うものにした方がよいのではないか、という考え方もあった、ということですが、ビル・コンドン監督はその意見を押しとどめ、「あの91年版の物語と楽曲を、最新技術で実写化する」という方針にしたそうです。

 それゆえ、「これが、本当にやりたかったことなのだ」という意味合いで受け止めますと、この映画の凄みが理解出来る気がします。「今さらなんで」とか「二番煎じ」という批判が当然、予想される中で、こういう映画を作ってしまったわけです。すでに公開から1か月で、世界興行収入は1000億円を超える大ヒットだそうですが、今の時代に、この企画を成立させ、実行するディズニーの大胆さはやはり恐るべし、と思う次第です。また多くの観客も、コンドン監督の示した「91年版の再現」という方針を喜んで受け入れた、と見てよいのだろうと思います。

 

 昔、フランスのある領地を治める城の王子(ダン・スティーブンス)が、盛大な舞踏会を開きました。そこに現れた老婆(ハティ・モラハン)が、一夜の宿を求めますが、王子はそのみすぼらしい姿をあざ笑い、追い返そうとします。しかし、その老婆は実は強大な力を持つ魔女で、王子と城に呪いを掛けてしまいます。すなわち、王子は恐ろしい野獣に、城の使用人たちは時計や燭台といった道具の姿に。さらに、魔法の薔薇の最後の花びらが散る前に、王子が「真実の愛」を理解しなければ、王子は永遠に野獣に、そして使用人たちも生命を失い、そのままただの古道具に化してしまうというのです。

 そのまま年月が流れ、魔女の魔法により、王子と城の存在も世間から忘れ去られてしまいました。

 それから後、この城の近傍にある小さな村で。パリから移ってきた芸術家で職人のモーリス(ケヴィン・クライン)の一人娘ベル(エマ・ワトソン)は、村一番の美女として有名ながら、読書と発明を愛する、当時としてはかなり飛んでいる女性で、村の中では浮いた存在でした。しかし、そんな彼女に一目惚れしてしまったのが、戦争帰りの野卑な元軍人ガストン(ルーク・エヴァンス)。自慢の体力とハンサムな顔で、村の娘たちは皆、ガストンに夢中ですが、何よりも知性を重んじるベルが、暴力的で自分勝手な彼を気に入るわけもありません。ずっとベルへの片思いが続く失意のガストンを献身的になぐさめるのが、戦地からの旧友であるル・フウ(ジョシュ・ギャッド)。しかしル・フウは、実は同性愛の傾向があり、ガストンに友情以上の感情を抱いているようです。

 ある日、村の外に出かけた父モーリスは、森で道に迷い、見たこともない古城にたどり着きます。一夜の宿を借りようとしますが、そこには魔女の呪いで道具にされた使用人たち、時計になった執事コグスワース(イアン・マッケラン)、燭台になった給仕頭ルミエール(ユアン・マクレガー)、羽根バタキになった女中頭プリュメット(ググ・バサ=ロー)、ハープシコードになったお抱え音楽家マエストロ・カデンツァ(スタンリー・トゥッチ)、衣装ダンスとなった声楽家ガルドローブ夫人(オードラ・マクドナルド)、そしてポットになったポット夫人(エマ・トンプソン)、その息子のチップ(ネイサン・マック)といった者たちがおり、気味悪くなったモーリスは逃げ出します。帰りがけに、ベルから頼まれていたお土産のバラを手折ったとき、恐ろしい野獣が襲ってきて、モーリスは捕らわれてしまいます。

 愛馬フィリップが単独で逃げ帰ってきたことで、父に異変があったことを察したベルは、城に駆けつけます。そして父モーリスの代わりに、自ら進んで野獣の人質になります。

 こうして野獣の捕らわれ人となったベルですが、使用人たちの心を込めたもてなしに心を和らげます。その後、ベルがオオカミの群れに襲われた際に、野獣が助けてくれたことをきっかけとして、野獣が実は心優しく、教養も高い存在であることを知り、徐々に心引かれていきます。ベルと野獣がダンスを踊り、ついに恋の果実は熟したか、というそのとき、ベルは父モーリスがガストンの差し金で、森に置き去りにされて死にかけた挙句、精神病院に監禁されようとしていることを知ります。

 野獣は、ベルを愛するがゆえに、ベルが城を出て行くことを許します。使用人たちは落胆しますが、野獣は「永遠に君を待つ」と歌います。

 一方、ガストンはおのれがヒーローになるべく、城の野獣を討伐する、と村人たちに宣言します。野獣狩りの一行を率いて先頭に立つガストンを見て、ル・フウは「確かに野獣は存在するに違いない。しかし、ここにもっと危険な野獣がいる」と呟き、ひそかにガストンを見限ることにします。

 野獣に迫る危機。ベルは父を救い出せるのか、そしてガストンたちが野獣の城に迫る中、一体、どう対処するのか。クライマックスへと話は向かいます・・・。

 

 ということで、基本的な大筋は91年版のままですが、違いもあります。野獣と、ベルの生い立ちについて明確に詳述されている点が、大きな相違点でしょう。なぜこういうことになっているのか、どうして今のような生活をしているのか、という意味づけがアニメよりしっかりされています。ベルも単に文学好きな夢見る少女、というよりも、アニメ版以上に、今で言う「リケジョ」的な気質で、18世紀なら確かに地域社会で浮いていただろう、いわゆるいじめにも遭っていただろう、という面が明確に描かれます。

 野獣がアニメ版と違い、王子としての高い教養を失っておらず、そこから知的なベルと意気投合する、という描かれ方も、より説得力があるでしょう。

 この作品でほぼ唯一の悪役ガストンも、単なる無教養でガサツ、無益な殺生を好む狩人で、愚かな乱暴者であった91年版と異なり、戦争帰りで軍服を着ており、今で言うPTSDを患って、狂暴化しているような解釈になっています。そして、甚だ単細胞だったアニメのガストンとは違い、非常に狡猾で大衆煽動がうまく、悪巧みにたけた人物になっている点も、かなり印象が相違します。

 しかし最も相違する点は、アニメでは全くガストンの腰巾着に過ぎず、あまり意味のないチョイ役だったル・フウです。彼が同性愛者であり、最後はガストンの狂気に疑問を抱く、という描かれ方は新鮮です。同性愛的、といっても本当に全くかすかに、それと匂わせる程度の描写が数回あるだけなのですが、一部の国や地域ではこの点が「不道徳」として、本作が上映禁止になったそうで、それは残念なことです。

 豪華キャストの中でも、エマ・ワトソンはまことにはまり役。クール・ビューティーぶりがこの作品ではひときわ魅力的です。アニメのベルとイコールとは見なさない方がいいように思います。91年よりもさらに個性をはっきりさせたベル、というキャラクターだと感じます。野獣役のダン・スティーブンスも、非常に難しいモーション・キャプチャーをこなしていますが、人間の姿の美丈夫ぶりも見ものです。それから悪役ガストンを熱演したルーク・エヴァンスも特筆ものです。これまで二枚目俳優として「ホビット」シリーズなどで見せたヒーロー然としたキャラクター像とは真逆の役柄ですが、この人がしっかり「悪」でないと、物語が成り立ちません。しっかりいい仕事をしています。それに、酒場でのミュージカル・シーンで見せる歌唱やダンスは見事なものです。

 その他の出演者もイアン・マッケランにエマ・トンプソン、ユアン・マクレガーと鉄壁の布陣です。道具姿でも、人間の姿でも安心して見ていられます。

 とにかく豪華絢爛たる映像美です。これは大スクリーンで味わいたいですね。そして、往年の名曲を、イメージを損なうことなく再現している点も素晴らしい。しかし、最後のリプライ・ソングでは、「ラ・ラ・ランド」でも大活躍したジョン・レジェンドが歌っているなど、現代的な味付けも忘れていません。

 さらに注目したいのが、「アンナ・カレーニナ」で見事な19世紀のロシア宮廷衣装を現代的な解釈で表現してオスカーを受賞し、ほかにも「プライドと偏見」や「マクベス」など史劇を多く手がけているジャクリーヌ・デュランの衣装。古典的なドレスや、歴史的な格好いい紳士服を扱わせたら右に出る者がない、という人ですが、今作でも遺憾なく、歴史的衣装への深い教養と理解を基に、上手に現代的なアレンジを試みているのが素晴らしいです。原作アニメ通りに、ベルの日常着は青色、ダンスでは黄色、野獣は青色の衣装を基調としていますが、たとえばアニメでは19世紀風の燕尾服だった野獣のダンスの際の上着が、18世紀前半までに流行したジュストコールになるなど、時代設定に即したものに変更されています。

この作品は、フランス版の「美女と野獣La Belle et la Bête」(2014年)でも同じような解釈をしていましたが、ちょうど、男女ともに服装が大きく変わる時代が背景にあります。原作の小説をヴィルヌーヴ夫人が書いたのが1740年。それゆえに、この物語を映画やアニメにする場合、18世紀の半ば前後を背景とすることが多いのですが、この1740年代から1世紀ほどの間は、西洋の服装が大きく変化した時期でした。男性の服装で言えば、お城の王子や使用人たちは、17世紀~18世紀中盤までに流行した半ズボンやホーズ(長い靴下)、くるくる巻いた白いカツラ、ジュストコールと呼ばれるシングルで、刺繍の入った豪華な上着、それに白塗りの化粧や付けボクロ、などをしています。一方、18世紀後半の、そろそろ王政が終わる時代、やがて革命から19世紀のナポレオンの時代、という頃にはフランスの服装が変化します。女性は大げさな宮廷ドレスから、シンプルな服装に変化し、男性たちもカツラを使わなくなり、男性の化粧も廃れます。半ズボンより長ズボンが普通になり、実用的な乗馬ブーツも流行します。衣服はアウトドア仕様のダブルの乗馬服が流行します。帽子も徐々に、三角帽から二角帽に変化します。本作もよく見て戴ければ、冒頭の王子の服装と、ガストンが着ている服装が上のような変化を示しているのが感じられると思います。もちろん、史実に基づいた劇ではないので、そこまで厳密ではないのですが、魔女の呪いのために経過した「時代の変化」を、服装でも表現しているのがよく分かります。そういう点もさすがに抜かりない、見事な映像作品ですね。

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2017年4月22日 (土)

【映画評 感想】グレートウォール

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 「グレートウォール
THE GREAT WALL」という映画を見ました。万里の長城をテーマにした本作は、昨年、中国の映画館チェーンを経営する「大連万達グループ」の傘下企業になったレジェンダリー・ピクチャーズが、中国市場向けに製作した映画、という見方をされがちですが、そういう先入観を持たないで見てみると、これがなかなかの快作です。

 レジェンダリーと言えば、これまでも「ダークナイト」などのバットマン・シリーズや、「300 :スリーハンドレッド」「タイタンの戦い」「ジャックと天空の巨人」「パシフィック・リム」「GODZILLAゴジラ」「ドラキュラZERO」「インターステラ―」「ジュラシック・ワールド」「スティーヴ・ジョブズ」「クリムゾン・ピーク」「ウォークラフト」、そして公開中の「キングコング 髑髏島の巨神」…と、見ているとマニアックというか、必ずしも万人向けを狙っていない、というか、かなり趣味性の強い映画を数々、製作してきた会社でありまして、嗜好が合うらしく、私も今、挙げた作品は、ほとんど見ています。

 今回も、中国市場を意識して、といってもそれで単純に中国人観客への一般受けを狙った作風を打ち出してきているわけでは決してない模様です。特に今作は、チャン・イーモウ監督のハリウッド・デビュー作品という一面もあります。イーモウ監督の独特の芸術的色彩感覚と映像美は、これまでも「HERO」「LOVERS」「王妃の紋章」などの世界的ヒット作を生み出してきました。また、コン・リーやチャン・ツィイーといった女優をスターに育てた監督でもあります。評価は高い監督ですが、決して万人に受ける、という作風の人でもありません。

 また、日本人の立場から見ると、北京五輪ディレクターという「国策監督」であり、南京事件を取り上げた映画「金陵十三釵(きんりょうじゅうさんさ)」を作った監督である一方で、高倉健主演の「単騎、千里を走る」の監督でもあり、なんとも賛否両論の出そうな人ではあるのですが、まあ今回はそのへんも先入観を持たないことにしておきます。

 本作では、ジン・ティエンという国際的には無名の28歳の女優をフィーチャーしてきましたが、これが魅力的です。さすがにイーモウ監督はヒロインの描き方がうまい。レジェンダリーつながりもあるのでしょうが、この人は公開中の「キングコング 髑髏島の巨神」にも出演しており、さらに「パシフィック・リム」の続編にも出演する予定だそうで、一気に国際的なスターダムに上りそうな予感がいたします。

 本作は、火薬が武器に使用され始めた12世紀、宋の時代の中国を舞台にしております。厳密に言えば北宋(9601127)なのか南宋(11271279)なのか、微妙な時代と言えますが、あるいはこの映画に描かれた事件が北宋の弱体化を招いた、という設定なのかもしれません(追記:その後、海外で出回っている情報では、本作に登場する「皇帝」は、北宋の4代・仁宗皇帝(在位:1022~63)と設定されていることが分かりました。だとすると、映画のパンフレットなどでうたっている12世紀ではなく、11世紀ということになるのですが、どうなっているのでしょう)。ともかく、火薬は唐代には中国で発明されたと言われます。中国の歴代王朝はこれを機密として、門外不出の扱いにしていましたが、モンゴル支配下の元王朝で銃器が開発され、13世紀にはアラブ世界、欧州に伝わり、それから17世紀ぐらいにかけて、欧州の軍の近代化が急速に進んでいくわけです。

しかし12世紀の当時においては、圧倒的に中国の方が先進的で、国家の正規軍である「禁軍」も存在したことに比べれば、十字軍時代の欧州の騎士団は、軍事的には古式蒼然たるものでした。おまけに金次第でどこにでも仕える傭兵稼業の兵士たちも跋扈して、混沌とした状況でした。このへんは、中国人向けのひいき目を勘案しても、確かに中国の方が先進的な国であった時期であると思います。そういう時代背景のもとに、建造に1700年もかかったという万里の長城に秘められた別の意味合いを語るのが本作であります。

 

 12世紀のある時。十字軍崩れのイングランド出身の傭兵ウィリアム(マット・デイモン)と、相棒のスペイン人傭兵トヴァール(ペドロ・パスカル)は、契約主の命令で黒色火薬を求めてはるばる欧州から中国を目指していました。火薬を持ち帰れば、莫大な報賞が約束されているのです。しかし馬賊に襲われて仲間は次々に命を落とし、最後は2人だけとなって砂漠地帯の山中の洞穴に逃げ込みます。ここでウィリアムは、得体の知れない緑色の化け物に襲撃されますが、剣でその化け物の片腕を切り落とし、撃退します。

 さらに馬賊に追われた2人は、宋王朝の軍隊が守備する巨大な「万里の長城」に至ります。後方から馬賊が迫る中、選択肢は他になく、2人はシャオ将軍(チャン・ハンユー)が指揮する宋の守備隊に投降します。

 守備隊の女性幹部の一人、リン・メイ司令官(ジン・ティエン)はなぜか流暢な英語を操り、ウィリアムたちを尋問します。守備隊の参謀であるワン軍師(アンディ・ラウ)は、ウィリアムがたった一人で化け物を撃退したという話を聞き、大きな関心を持ちます。その緑色の化け物とは、その時代から約2000年の昔、飛来した隕石から出現した異世界の化け物で、なんでもむさぼり食らう恐ろしい存在。中国では饕餮(とうてつ)と呼ばれる凶暴なモンスターです。アリの生態に似ており、1匹の女王が全体の頭脳として群れを支配しており、60年周期で繁殖して攻めてくるといい、ちょうどこの時が、再び饕餮が長城をめがけて攻め込んでくる直前の時期なのでした。長城も、異民族への備えだけでなく、むしろこの化け物を防ぐために築かれたのだと言います。

 饕餮の大軍が初めて攻め込んできたとき、ウィリアムとトヴァールは目覚ましい活躍を示し、シャオ将軍やリン・メイから一定の信頼を得て、自由を得ます。また、ウィリアムはここで一人の若い士官候補生ポン・ヨン(ルハン)の命を助け、彼から厚い信頼を得ます。

ところで、砦には思いがけなくも、もう一人のイングランド人がいました。やはり火薬を求めて中国までやって来て、ここの守備隊に捕まり、25年もの間、軟禁されているバラード(ウィレム・デフォー)という老人です。彼がいるために、リン・メイやワン軍師など、一部の者が、流暢な英語やラテン語を使え、欧州の事情にも一定の理解がある理由が分かります。バラードは仲間が出来たことに勇気づけられ、3人で火薬を盗み出して、次の饕餮の攻撃があった際には、ひそかに逃げだそうと提案します。トヴァールは一も二もなくその提案に飛びつきますが、ウィリアムは、命がけで人々の生活を守ろうとしている長城の守備隊を見捨てて逃げ出す行為に疑問を抱きます。

 ある日、饕餮の奇襲を受けてシャオ将軍が戦死し、リン・メイが後任として長城守備隊の将軍に就任します。

 やがて、ウィリアムが饕餮に襲われた際、胸に方位を知るための磁石を入れていたことが、饕餮の動きを鈍らせたのではないか、という事実が分かります。磁石の磁界が、女王の指令を受け取れなくする効果があるようなのです。

 この事実を確かめるべく、次の攻撃では饕餮を生け捕りにしよう、とウィリアムはリン・メイに進言します。しかし逃げ出すつもりのトヴァールは激しく反対します。すぐに饕餮の大軍が長城に攻め寄せますが、バラードとトヴァールは火薬を求めてこそこそと逃げだし、一人、残ったウィリアムは饕餮の群れの中に決死の覚悟で飛び込みます。それまで半信半疑だったリン・メイもウィリアムの勇気に心を動かされます。トヴァールも結局、ウィリアムの行動に従い、不本意ながら今回の脱走は見送りました。

 しかし、饕餮の攻撃はまだまだ続きます。饕餮の弱点が磁石にあることを知った朝廷の勅使シェン特使(チェン・カイ)は、自分の手柄として皇帝(ワン・ジュンカイ)に披露したいがために、生け捕りにした饕餮を宮廷に運び込みます。一方、リン・メイたちは饕餮の本隊が山脈に穴を開けて通路を造り、長城を迂回して都に向かった事実を知ります。その混乱に乗じて、またトヴァールとバラードは脱走を企てます。さて、ウィリアムはどういう選択をするのでしょうか。さらに、都を饕餮に襲われれば、中国はおろか、次は世界中が襲撃されて人類は終焉を迎えるかもしれません。リン・メイたちはこの危機をどう乗り切るでしょうか・・・。

 

 ということで、とにかく素晴らしい映像です。「王妃の紋章」でも圧倒されましたが、この色彩感覚と、人海戦術のすさまじさは中国ならでは。長城のセットにしても、ハリウッド側が張りぼてを提案したところ、中国側の大道具さんは、レンガを積み上げて本物の長城のようにセットを築いたそうです。一方でハリウッドの一流どころが全力で支援しており、原案はあの「プロデューサー」のメル・ブルックスとアン・バンクロフト夫妻のお子さんのマックス・ブルックス、脚本は「プリンス・オブ・ペルシャ」のカルロ・バーナードとダグ・ミロ、衣装は「アバター」のマィエス・C・ルベオといった布陣です。本編1時間43分という短い時間でたくさんの情報を処理する脚本は非常に冴えていてテンポが良く、現代的です。また、特に衣装は見事で、禁軍に属する五つの部隊の鮮やかな色彩の甲冑が、史実をふまえながらもスタイリッシュで、色彩の魔術師たるチャン・イーモウ監督のこだわりに応えた素晴らしい出来栄えです。

 アンディ・ラウやルハンといった、中国では大人気のスターやアイドルを起用しており、みんなとてもいい演技をしていますが、やはり外国人の目で見ると、今回はジン・ティエンのための映画、という感じ。本当に彼女が魅力的です。近年、ボーン・シリーズはもちろん「インターステラ-」「オデッセイ」「エリジウム」などいろいろな映画で大活躍のマット・デイモンも引き立て役に徹している感じです。

なんでも、出演者一行が宿泊したホテルにたくさんの花束が届き、それが大人気のアイドル歌手であるルハンにあてたものであることを知って、デイモンはびっくりしたとか。同時に、自分は中国ではあまり知名度がないことにがっかりしたそうですが(笑)、いえいえ、実は正義感の強い誠実な頼れる男、という役柄は彼にピッタリです。

 今、いろいろな話題作が封切りされていますが、アクション好きな方なら大画面で見てほしい一作ですね。私たちは「これは劇場で見て良かった」と心から思いました。

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2017年4月15日 (土)

【映画評 感想】 帰ってきたヒトラー

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千葉県浦安市のディズニーランド併設のショッピングモール、イクスピアリにある映画館シネマ・イクスピアリでは、今「舞浜で名画を!
 キネマ・イクスピアリ」と題して、毎月1本ずつ、1週間だけ限定で、最新の映画ではない少し前の話題作や、クラシックな作品を公開する試みをしています。今や、昔あちこちにあった「名画座」はほとんど壊滅してしまいましたので、大スクリーンで見逃した名作が再映されるのは素晴らしいことです。

 それで、この14日までやっていたのが、2015年に話題になったドイツ映画「帰ってきたヒトラーEr ist wieder da」でした。昨年夏に日本でも公開され、かなり評判になったのですが、私たちはこの時期、自分たちの本『軍装・服飾史カラー図鑑』(イカロス出版)の最終追い込みに入っており(刊行は8月)、さらにNHKの番組「美の壺」の取材を受けていた時期でもあり、この映画を見る余裕はありませんでした。

 それが、ここに来て思いがけない舞浜登場、ということで、見て参りました。

 もう昨年に流行った作品ですので、ここでくどくど説明する必要もないと思いますので簡単に書きますが、要するに、1945年に自決したはずのナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、なぜか2014年のベルリンに蘇ってしまい、初めは時代の変化に当惑するものの、迫真の「ヒトラー物まね芸人」として人気者になってしまう、という話です。インターネットにSNS、テレビが完備した現代こそ、プロパガンダの天才であるヒトラーには、まさに水を得た魚のように活躍出来る理想的な環境である、という現実。おまけに、時代は移民排撃と反グローバリズムに明け暮れ、まさにナチス時代前夜のような世相。テレビ番組に出演することになるや、嫌悪されるどころか視聴者から絶大な人気を得たヒトラーは、最後には彼を「本物のヒトラー本人が蘇ったのでは?」と気がついたテレビ局の契約社員を精神病院に送り込み、さっそうとオープンカーに乗って叫びます。「これは好機到来だ!」

 とにかくヒトラー役のオリヴァー・マスッチが素晴らしく、本来の彼は全くヒトラーに似ていないのですが、特殊メイクにより顔貌は40歳頃の最盛期のヒトラーにそっくり。声色といい、いかにも言いそうなセリフといい、演説の前にわざと黙り込んだり、初めに意表を突くようなテーマで話し始めたり・・・まことにヒトラーの言いそうなこと、やりそうなことを徹底的に再現して、現代の世相に持ち込んでいるのがすごいです。

 そして、実際にヒトラーの特殊メイクのまま、ドイツ各地で突撃撮影をして、道行く人に語りかけたり、政治家に突撃取材したりしているのですが、そこで当惑したり、腹を立てたり、逆にヒトラーに意外にも親しみを込めて接する市民の姿を描いていきます。このへんはもうドキュメンタリーですね。かなり、危険な撮影だったと思いますが、このマスッチ本人も、スタッフもすごい勇気ですね。

 終盤になって、おそらくテレビ局の経費で作ってもらった、という設定なのでしょうが、金色の「総統用鷲章」が輝く革製のコートに身を包んだヒトラーは、有名な肖像画そっくりで、知っている人ほど慄然とするでしょう。

 この原作は2012年に刊行されてドイツでベストセラーとなり、映画制作は2014年ということで、トランプ氏の当選とか英国のEU離脱といった動きが目に見えて表れるより前に作られたことを考えると、原作者ティムール・ヴェルメシュ、デヴィット・ヴェント監督始め、制作した人々の慧眼には恐れ入ります。

 そして、ずっと見ていると、まるでイタコが口寄せしているかのような巧みな演技力で語られる「ヒトラーの主張」が、かなり正しいもののように思えてくるのがすごいです。そういうふうに見ている人が思ってしまう、というのが映画の力ですね。

 名画シリーズのおかげで、公開時に見逃した作品を改めてスクリーンで見られて幸運でした。今後もこういう試みを続けて戴きたいですね。

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2017年3月25日 (土)

【映画評 感想】モアナと伝説の海

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 ディズニー・アニメ映画「モアナと伝説の海」
MOANAを見ました。この作品について、絵柄からほのぼのした作風を思い描いたら大間違い、「マッドマックス」の新作と「もののけ姫」を合わせたような感じで、非常に硬派な冒険アクション・ムービー、という映画評を読んだことがありますが、それは言い得て妙です。実際、ヒロインのモアナは強い使命感でミッションを果たし、自分の共同体を守ろうとするのですが、そのへんはむしろ「風の谷のナウシカ」も思い起こさせます。16歳の少女、ということもあってか王子様は登場せず、甘ちょろい恋愛話もなし。おふざけ的な展開もあまりなく、スケールの大きな海洋冒険物語となっております。

 「アナと雪の女王」はまずもって音楽のよさがヒットの要因となりましたが、今作も音楽が素晴らしいですね。主題歌「どこまでもHow Far I’ll Go」や挿入曲「俺のおかげさYou’re Welcome」は普通に発表してもヒット・シングルとなりそうな見事な曲です。

 今作の基本テーマは、メラネシアの人々がはるばる大洋を越えて、ポリネシアの島々に到達する歴史的な事実を取り上げる非常に野心的なものです。台湾に住んでいた祖先の人々は長い時間をかけ、メラネシアからミクロネシアの島々に移住していき、フィジーあたりまで進出していました。非常に高い航海技術を持っていたからで、西洋人が1516世紀にもなって「大航海時代」などと言いますが、アジアでは紀元前に海洋進出をしていたわけです。パンフレットによれば「しかし今から約三千年前、彼らの航海は突然停止した。そこから千年もの間、彼らは海を渡ることをやめ、他島への移住活動も行われなくなった―いくつかの説はあるものの、その正確な理由を知る者は誰ひとりいない。そして今から二千年前に航海が再開され、タヒチ、ハワイ、ニュージーランドなどの発見につながっていく」

 すなわち、このアジアの大航海時代「千年間の中断」はなんだったのか、を描いたのが本作。そして、モアナの冒険こそが「航海の再開」の契機となった、という描き方なわけです。なかなか壮大ですね。

 したがって本作の舞台は、二千年も前のメラネシアのどこかの島、ということで、地球の反対側ではローマ帝国が全盛期で、キリストが処刑されていたころ、太平洋ではこんな時代だった、ということです。時代考証を経た細かい服装や、髪の毛の描写など実に緻密で、CGアニメだからこそ手間がかかっています。そのへんはむしろ、実写の方が簡単ですものね。特に水にぬれた縮れ髪の描写が大変だった、といいます。また全編のほとんどで登場する海、波の描写も非常に苦労したそうです。途方もない人々の作業の成果が本作なのでしょう。

 

 1000年の昔、母なる女神テ・フィティの「心」を、変身の名人で、いたずら者の半神(デミゴッド)であるマウイ(声と歌=以下同じ:ドウェイン・ジョンソン)が奪い取りました。しかしそのために恐ろしい「闇」が生まれ、炎の悪魔テ・カァが出現。マウイはテ・カァに撃ち落とされ、テ・フィティの心も深海に沈んでしまいました。それから以後、闇は徐々に広がり、島々に栄えた文明は一つ、また一つと衰退して消えていきました。人々は闇の襲来を恐れるようになり、遠洋航海をやめ、それぞれの島に閉じこもって暮らすようになりました・・・。

 それから1000年の後、楽園の島モトゥヌイの族長トゥイ(テムエラ・モリソン)とその妻シーナ(ニコール・シャージンガー)の一人娘、モアナ(アウリィ・カルバーリョ)は、小さいころから海で遊ぶのが大好き。ある日、人格のある「海」が幼いモアナに渡そうとしたのは、あの「テ・フィティの心」でした。

 しかし、外洋に一歩も出ない島の掟に凝り固まっているトゥイは、モアナが海に関心を持つことを許さず、族長の後継者として育てようとします。ただ一人、モアナの祖母でトゥイの母であるタラ(レイチェル・ハウス)だけはモアナの理解者で、モアナに「自分の心の声に従って生きなさい」と諭します。

やがて大きくなり、未来の族長としての自覚に目覚めたモアナは、もう海に出ようとはしませんでした。それをトゥイは喜びますが、ある日、突然、異変が訪れます。島の作物が育たなくなり、魚も一匹も取れなくなる異常事態が発生し、大騒動になります。「闇」がついにモトゥヌイにも迫ってきたのです。外洋に出ようと進言するモアナをトゥイは一蹴し、独断で海に出たモアナはたちまち嵐に遭い、海の恐ろしさを思い知ります。絶望したモアナにタラは、モトゥヌイの一族の秘密を教えます。すなわち、先祖たちは初めからこの島にいたのではない、はるか彼方の土地から船に乗って移住してきた旅人だったのだ、と。

そうこうするうち、タラは倒れてしまいます。タラは最後の力を振り絞り、モアナに「お前は海に選ばれた」と告げ、とっておいた「テ・フィティの心」をモアナに託して、冒険に出るように促して、この世を去ります。

こうしてモアナは、たまたま船に乗った鶏のヘイヘイと共に、遠くマウイが幽閉されている島を目指します。モアナが本当に「海に選ばれた」者ならば、テ・カァとの戦いに敗れて、神から授かった魔法の釣り針を失い、変身能力を喪失しているマウイを復活させ、その助けを借りて「テ・フィティの心」を元に戻さなければなりません。

苦労の末にモアナが出会ったマウイは、話に聞いていた英雄的な半神とはほど遠く、お調子者でナルシスト気味の相当に自己中心的なヤツで、自分が問題の原因を作ったにもかかわらず、何の責任感も感じていない様子。ココナッツの海賊カカモラたちの襲撃を、マウイと協力して退けた後、モアナは釣り針を手に入れて、華々しい英雄として復活するようマウイを説き伏せ、マウイもモアナの熱意に根負けして、ようやくその気になります。

しかし、その釣り針は深海の魔物の国ラロタイを治める巨大なカニの化け物、タマトア(ジェマイン・クレメント)が所持しており、取り戻すと言っても容易なことではありません。マウイの復活と、テ・カァとの決戦はいかに。そして世界を飲み込もうとする闇の襲来を、モアナは防ぐことができるのでしょうか。

 

ということで、実際にヒロインと同年齢のアウリィ・カルバーリョの歌声が実に素晴らしいです。そして、もう一人の主人公マウイを演じているのは、プロレスラー「ロック」として有名なドゥエイン・ジョンソン。彼が主演した「スコーピオン・キング」がヒットしましたし、「ワイルド・スピード」や「ヘラクレス」にも出ていますね。今回は頼りがいがあるのかないのか、つかみどころのない英雄の役なのですが、非常にはまっています。それもそのはず、実はジョンソンの祖父はサモア系で、太平洋諸島の人々に崇められている英雄マウイは、彼にとっても子供のころから憧れの存在だったそうです。思い入れが深い役をゲットしたのですね。

ミュージカル的な演出で感動させるパートと、豪快なアクション・シーンが交互に繰り出されて、最後まで畳み込まれる快作でした。日本では春休みの公開で、子供向けのような扱いになりがちですが、それで見過ごしてはもったいない一作だと思います。

なお、本作は最後の最後に追加シーンがあるので、慌ててお帰りにならないように。また、冒頭におまけ的な短編映画「インナー・ワーキング」という作品が5分ほどあります。こちらは内容的に、本編となんの関係もないのですが、これがまたなかなか秀逸です。

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2017年3月18日 (土)

【映画評 感想】アサシン・クリード

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 映画「アサシン・クリード」
ASSASSIN’S CREEDを見ました。ドイツ出身の人気俳優マイケル・ファスベンダーの主演作で、共演はフランスを代表する女優マリオン・コティヤール。またジャスティン・カーゼル監督は、同じ2人が主演した2015年の話題作「マクベス」の監督でもありました。

 この映画の元となったのは、フランスのゲーム会社UBIの代表作「アサシン」シリーズです。大ヒットゲームの映画化、というのは時々ありますが、やはりゲームと映画は異なる媒体なので、そのまま移植するわけにはいきません。

 ゲームの方は、人類の起源に異星人なのか超古代文明人なのか、とにかくいわゆる「神」のような存在が関わった、というのが前提の世界観になっております。そして、その「神」が残した情報をめぐり、古代から数千年の長きにわたり二つの秘密結社が抗争を続けており、その一方が人類を統制支配しようとする「テンプル騎士団」、もう一つが人類の自由意思を守ろうとする「アサシン教団」である、という設定です。

 この両者の戦いは現代にまで及んでいるのですが、テンプル騎士団が20世紀初めに創設したアブスターゴ財団が先端科学技術アニムスを開発し、遺伝子情報の中に残された先祖の記憶を再体験できるようになります。その結果、アサシン教団の戦士の子孫が、十字軍時代のエルサレム、ルネサンス期のフィレンツェ、産業革命期のロンドンに潜入し、先祖と一体となって歴史に介入し、現代の問題を解決していく、というのがゲームの基本的な話です。

 もちろん歴史上、実在したテンプル騎士団、暗殺(アサシン)教団をモデルとしているわけですが、史実とは関係なく、あくまでもゲーム独自の解釈になっているわけです。

 それで、今回の映画化では、上記の基本設定はそのままに、従来のゲームで登場したエルサレムやフィレンツェを選択せず、新たに15世紀末のスペインを舞台としています。つまりキリスト教勢力によるレコンキスタが成功して、最後のイスラム国家グラナダ王国(あのアルハンブラ宮殿で有名ですね。宮殿のシーンは映画でも登場します)が陥落、イスラム勢力が欧州から去り、スペイン王国が成立した頃、そしてまもなくスペインのイザベル女王の後援を得て、コロンブスが新大陸に出発する時期を舞台としています。

 

 1491年、スペインで暗躍したアサシン教団の戦士、アギラール(マイケル・ファスベンダー)は、同僚の女戦士マリア(マリアーヌ・ラベド)と共に重要な任務を遂行していました。グラナダ王国の最後の君主ムハンマド12世(カリード・アブダーラ)の幼い王子が、スペイン国王の側近でテンプル騎士でもある異端審問長官トルケマダ(バビエル・グティエレス)に捕えられ、ムハンマドが所持している古代の秘宝で、それを所持することで全人類を支配できる「エデンの果実」がトルケマダ、ひいてはテンプル騎士団の手に渡ることを防ぐ、というのがその任務でした・・・。

 それから500年後。1988年のメキシコ・バハで、少年カラムはある日、父親が母親を殺害し、さらに謎の勢力に逮捕される光景を目にします。その場を命からがら脱出したカラムは、さらに30年後の2016年、中年の犯罪者となってアメリカの刑務所にいます。

 誕生日のその日、殺人犯カラム(ファスベンダー)は死刑の執行を迎えます。薬物を注射され、最期の瞬間を迎えた・・・と思った次の瞬間、自分はまだ死んでおらず、病院のようなところで蘇生したことに気付きます。その場にいたソフィア(マリオン・コティヤール)は、ここがアブスターゴ財団の施設であることを告げ、彼に祖先の記憶に退行する装置アニムスを取り付けます。この15世紀の世界を体験する実験の結果、カラムは間違いなくアサシン教団のアギラールの子孫であることがはっきりします。

カラムの体力の限界を迎え、ソフィアはそれ以上の実験を性急に続けることに反対しますが、アギラールはエデンの果実を手にした最後の人物、とされており、それを手に入れることに執着する財団の総裁でソフィアの父、アラン(ジェレミー・アイアンズ)は、アギラールがトルケマダの一派に捕えられ、火刑に処せられたとされる日付の歴史を再現することをソフィアに急がせます。というのも、アランは実は現代に続くテンプル騎士の一人であり、騎士団総長ケイ(シャーロット・ランプリング)から、まもなく開催される騎士団総会までに成果が出ない場合、財団への財政支出を打ち切る、と通告されていたのです。

一方、カラムは施設内に、かつて母を殺して姿を消した父ジョセフ(ブレンダン・グリーソン)がいることをアランから告げられます。30年ぶりに再会した父から、カラムはあの日の真相を聞かされます・・・。

 

ということで、トルケマダやムハンマド12世など、歴史上に実在した人物と架空の人物が入り乱れる歴史ファンタジーですが、馬に乗ったり弓を射たり、独特のアサシン・ブレードで戦ったり、とファスベンダーとしても今までで最もトレーニングが厳しかった映画だったそうです。アクションシーンがゲームそのままで再現されます。

当然、スタントの人たちも大活躍で、特にゲーム版での特徴だった、ワシのように高いところから飛び降りるイーグル・ダイブの再現ではデジタル技術は使わず、本当にダミアン・ウォルターズという人が37メートルもの高さから降下して撮影しているそうで、まさにド迫力です。

「マクベス」以来の共演であるコティヤールも、今回は冷静な科学者、という役どころですが、ファスベンダーとは息もぴったり、いい演技をしています。アイアンズとランプリングという2人の大物も抜かりがないです。特に70年代に「愛の嵐」で一世を風靡したランプリングも今や71歳ですが、相変わらずの美しさです。また、父ジョセフ役のブレンダン・グリーソンはハリー・ポッター・シリーズや「オール・ユー・ニード・イズ・キル」にも出ていたベテラン俳優ですが、スター・ウォーズのエピソード7や「レヴェナント」に出演して知名度を上げているドーナル・グリーソンのお父さんだそうですね。

しかし今作で注目なのは、やはり15世紀スペインのシーケンスでして、物語の大半を占める15世紀のストーリーでは、登場人物は皆、よくハリウッド作品でありがちな、なんとなく英語にしてしまうということはなく、スペイン語で押し通しております。素晴らしいですね。こちらでなんといっても光っていたのが、アギラールの仲間でおそらく愛し合ってもいる女戦士マリア役のマリアーヌ・ラベドという人。とにかくこの役柄にぴったりのミステリアスな美女ですが、経歴を調べてみるとスペインの人じゃなくて、ギリシャ系のフランスの女優さんだそうですね。イーサン・ホーク主演の2013年の映画「ビフォア・ミッドナイト」あたりがハリウッド・デビューで、近年、急速に評価が高まっている人だとか。このへんからぐっと出てくるかもしれませんね。

とにかく全編がゴージャスかつ奇抜な映像で埋め尽くされ、ゲームのファンもそうでない人も十分に楽しめる一作でしょう。なんとなくラストは今後も続きそうな感じで終わります。続編でさらに、別の時代を取り上げてくれると嬉しいですね。

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2017年3月 2日 (木)

【映画評 感想】ラ・ラ・ランド

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話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」
La La Landを見ました。先月末に発表された米アカデミー賞で13部門14ノミネート(あの「タイタニック」と並ぶ史上タイ記録)され、主演女優賞のエマ・ストーン、監督賞のディミアン・チャゼルなど6部門を制する快挙を成し遂げました。なお、私が見た千葉県市川市のTOHOシネマでは、パンフレットが売り切れとなっておりました。

前作「セッション」で一躍、有名になったチャゼル監督ですが、本当に作りたいのは実は、ミュージカルだ、といって奮闘した結果が今回の大成功。アカデミー監督賞受賞者としては32歳という史上最年少となりました。ちなみに、これまでの最年少者は1931年に第4回アカデミー賞で監督賞を受けたノーマン・タウログ監督。同じ32歳でしたが、チャゼル監督の方が数か月、若いとか。このタウログ監督もチャゼル監督と同様、音楽映画が得意な人で、特に60年代のエルヴィス・プレスリー主演の映画、たとえば「GIブルース」「ブルー・ハワイ」などは、この人が手がけたことで知られています。

ということで、最年少で受賞と聞くと、さぞかしトントン拍子のスピード出世、という監督なのかと思ってしまいますが、実は決してラッキーなだけの人ではなく、若いころにはジャズ・ミュージシャンを目指して挫折。その後は名門ハーバード大学に進み、映画の脚本を書くようになったけれど、あくまでも頼まれ仕事ばかり。そうした苦い経験をもとに自分で書いた脚本を売り込んで「セッション」の成功をつかみ、さらに「今時、ミュージカル?」という疑問の声を抑えて、執念でこの作品を作ったということで、かなり根性の人です。確かに、「レ・ミゼラブル」や「オペラ座の怪人」のように、すでに舞台でヒットして定評のあるミュージカル作品の映画化は近年でも珍しくありませんが、映画オリジナル脚本のミュージカル、というのは非常にまれです。

なお、本作はオペラのようにあらゆるセリフを楽曲にしている作品ではなく、普通のストレートな芝居のパートと、音楽のパートが交差する作品ですが、この辺が実に巧妙に使い分けされています。厳しい現実を描く通常のパートと、夢の世界を描くファンタジックなミュージカル・パート、というのが意識して配置されており、これが最後まで効果的です。

本作は、夢をつかもうと悪戦苦闘する売れない女優と、世間に才能が理解されないジャズ・ピアニストの姿が描かれますが、このへんも監督自身の下積み経験がにじみ出ているように思われます。「それでも、いつかは自分の夢をかなえたい」と思って奮闘している人すべてへの応援歌のような素晴らしい作品ですね。また、主演のエマ・ストーンも「アメイジング・スパイダーマン」で注目されるまでは苦しいオーディション巡りの日々だったそうで、その経験も大いに役作りに反映しているように見えます。本作は当初、あのエマ・ワトソンがヒロインという案もあったそうですが、結果から見てエマ・ストーンで正解だったように感じます。そういえばエマ・ストーンの方は、ギレルモ・デルトロ監督の「クリムゾン・ピーク」を主演する予定だったものを降板したことがありました。あちらはミア・ワシコウスカで正解だったように思われます。まあ、こういう役者と監督、作品の出会いも運命的なものといえますね。

ところでこの映画、恋愛ドラマとしてみると、けっこう切ない内容でもあります。全体に映像作りや音楽、色彩、衣装など、現代を扱っていながらどこか古き良き時代のノスタルジーを掻き立てる作品でもあり、あの名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」にどこか似ている、という声が、見た人から上がっているそうですが、最後まで見るとそのわけが分かります。季節ごとに話が移ろう構成とか、ミアが書いた一人芝居の脚本での役名が「ジュヌヴィエーブ」であるとか、何よりラストシーンの後味が非常に似ているのです。そして、なるほど、人生とは、いたるところで分岐点があり、そこで自覚的に動けた人が夢に近づいていけるのかもしれない。しかしまた、そこで何かを犠牲にしてしまうかもしれない。いろいろなことを考えさせられる作品です。ディミアン・チャゼル監督、後生おそるべし。32歳にして人生、ここまで達観できているとは・・・。

言うまでもないですが、アカデミー作曲賞、主題歌賞をとった音楽が本当に素晴らしい! 全英、全米のヒットチャートでそれぞれ1位、2位となっているそうで、これは映画サントラ盤として、やはりミュージカル映画の傑作「レ・ミゼラブル」以来のヒットです。あえていって今時、はやりの映画音楽然としたスコアからすれば、非常にキャッチーで耳につく旋律は、それこそ「シェルブールの雨傘」などの時代の作品を想わせますが、それが実に素晴らしく、感動的です。また、挿入曲としてジャズの名曲が登場するのはもちろん、冒頭のチャイコフスキー「1812年」に始まり、往年のahaのヒット曲「テイク・オン・ミー」やら、セロニアス・モンクが編曲したジャズ・バージョンで、日本の滝廉太郎の曲まで使用しており、エンドクレジットで紹介しているので、いろいろ注目です。さらに、グラミー賞歌手のジョン・レジェンドがミュージシャン役で出演しており、「スタート・ア・ファイアStart A Fire」という曲を熱唱しています。これがまた、作品内では、主人公が正統派ジャズではない曲を不本意に演奏させられている、というシーンであるにもかかわらず、非常に名曲でカッコいいです。

作品の最初の部分、実際に高速道路を借りて、渋滞する車の屋根に上ってテーマ曲を歌う群衆、というシーンに度肝を抜かれます。あのつかみ方で、監督の才能がいきなり垣間見えますね。それから、ほかに驚くべき点として、ピアニスト役のライアン・ゴズリングはすべてのシーンでピアノを実際に弾いているそうで、ほんの3か月ほどの特訓であれを弾いているとは、恐るべき努力と才能です。また、ゴズリングもストーンも、演技を撮影しながら実際に歌って生録りを敢行したそうで、これは「レ・ミゼラブル」でも行われた手法ですが、事前に録音した音に口パクするのとはわけがちがいます。事実上、舞台でライブを見るような臨場感ですが、当然ながら出演者は大変です。まあ、今年はちょっとトランプ大統領がらみで政治的な側面も見え隠れしたアカデミー賞でしたが、ああいう背景がなければ、本作はもっと受賞数を増やしたのではないかと、その点が残念に感じます。

 

高速道路の渋滞の中、オーディションのセリフ覚えで夢中な下積み女優のミア(エマ・ストーン)の愛車プリウスを、売れないジャズ・ピアニストのセブ(ライアン・ゴズリング)のオープンカーが追い抜きます。「何よ、感じの悪いやつね」。2人の出会いは最低でした。

ミアはカフェでアルバイトしながら、映画やテレビドラマのオーディションを受けては落選の連続。その日もオーディションを受けて手応えなしで、同じ女優志望のケイトリン(ソノヤ・ミズノ)らと、業界の関係者にコネを作るためパーティーに乗り込みますが、脚本家を自称する男グレッグ(フィン・ウィトロック)にしつこく言い寄られた以外、収穫なし。おまけに愛車を駐車違反で警察に移動され、失意のまま徒歩で帰宅することに。しかしそんな中、素晴らしいピアノの音が聞こえてきます。ふと通りすがりの店に立ち寄ると、演奏していたのはセブでした。

一方のセブは、姉ローラ(ローズマリー・デウィット)から「堅実な仕事に就きなさい」と諌められながら、ジャズ専門の店を開くという夢を諦めきれません。年末のその時期、クリスマス・ソングを弾くように店のオーナー、ビル(JK・シモンズ)に命じられていたのに、勝手に自分の好きな曲を弾いたことで、その場で解雇。ミアは「あなたの演奏に感動した」と近寄りますが、セブはふてくされて彼女を無視し、店を出て行ってしまいます。こうして、2人の偶然の再会も最悪なものでした。

ところがしばらく後、ある野外パーティーで演奏しているコピーバンドに目を留めたミアは、キーボードを弾いているのがセブだと気付きます。この会場でも、グレッグにつきまとわれていたミアは、セブに友人の振りをしてもらい、2人で会場を抜け出します。

ここまで、ずっと好感度ゼロでありながら、偶然の出会いが何度も続いたことで、急速に感情が高まっていくミアとセブ。お互いに売れない女優とピアニストである身の上で、夢を語り合ううちに意気投合していき、すぐに愛し合うようになります。

だが、そのままでは現実は何も変わりません。己が信奉する純粋なジャズだけを演奏する店を開きたいと考えるセブは、資金を貯めるために、旧友のキース(ジョン・レジェンド)が結成した新しいR&B系のバンドに参加。初めは乗り気ではなかったものの、このバンドが思いがけない成功を収めてしまい、長いツアーに出ることになります。ミアの方も、自分で脚本を書いた独り芝居を自費で上演し、一世一代の大勝負に出ようとします。こうして、徐々に2人の進む道は離れていきます・・・。

 

「セッション」のJK・シモンズが、チョイ役ながら顔を出しているのが嬉しいですね。それから、ヒロインの友人役のソノヤ・ミズノは東京生まれの日系英国人で、これまではモデル業中心でしたが(ユニクロの広告などでも活躍していました)本作が大注目となったので、映画界での活動も増えてきそうです。エマ・ワトソン主演で間もなく公開の実写版「美女と野獣」にも出演しているとのことです。

ということで、この作品は映画館で見るべき一作だと思いました。もちろん、このような話題作は遠からずDVDになり、テレビでも放映するでしょうが、これほど計算されつくした映像と音楽を味わうには、テレビではいかにももったいないですね。

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2017年2月24日 (金)

【映画評 感想】ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち

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「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」
Miss Peregrine's Home for Peculiar Childrenという映画を見ました。ティム・バートン監督の新作です。なんというか、X-Menとハリー・ポッターとメリー・ポピンズを足して、そこにタイム・ループもの(特定の同じ時間を何度も繰り返す)の要素を加えた、という感じの非常に独特の世界観です。話の内容的に、映像化がかなり難しそうなものなのですが、随所に工夫が凝らされており、映画として非常に面白いと思います。タイム・ループものでは、少し前の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などもありましたが、今回はダーク・ファンタジーとしての持ち味と、SF的な設定の融合が興味深いです。

 原作は2011年に発表されてベストセラーとなったアメリカの小説で、大筋はそのままなのですが、映画化に当たってかなり変更している点もあるそうです。現代のアメリカと、第二次大戦中の英国ウェールズが主要な舞台となります。その時代設定が原作とはちょっとずれているのですが(原作では1940年、映画では1943年)、ラストシーンの設定のための変更らしく、なかなかよく考えられております。

 

 2016年、アメリカ・フロリダに住むジェイク(エイサ・バターフィールド)は、周囲となじめない16歳の孤独な少年です。学校では友達もできず、家庭では両親とも疎遠。祖父エイブ(テレンス・スタンプ)に育てられたおじいちゃん子のジェイクは、ある日、祖父の身に異変が起きたことを知って、アルバイト先の上司シェリー(オーラン・ジョーンズ)と共にエイブの家に駆けつけます。

 家は荒らされ、エイブは両目をくりぬかれて瀕死の状態で倒れていました。彼はジェイクに、ウェールズのケインホルム島に行き、孤児院の管理人ミス・ペレグリンに会うように言い残して死亡します。その場で、腕の長い不気味な化け物の姿を見たジェイクは、拳銃を携帯していたシェリーに射撃するように言いますが、シェリーには化け物の姿は見えず、銃弾も命中しませんでした。

祖父の無残な死にショックを受けたジェイクは、両親の勧めで精神科医のゴラン医師(アリソン・ジャニー)の診療を受けることになりますが、もともと、浮世離れしたおとぎ話のようなことばかり語るエイブと、そのエイブに育てられたジェイクの正気を疑っていたジェイクの父親フランク(クリス・オダウド)は、今回の件でもエイブの言うことなど真に受けるはずがありません。やがてジェイクの誕生日に、叔母スージー(ジェニファー・ジャラッカス)からエイブの形見の詩集を渡されたジェイクは、その中に挟まれていた書簡から、祖父エイブが実際にケインホルム島のミス・ペレグリンと最近まで交流していた事実を知ります。

第二次大戦中に、エイブはミス・ペレグリンが管理するケインホルム島の孤児院で、奇妙な子供たちと生活していた、と聞かされて育ったジェイクは、それまでその話を作り話だと思っていましたが、それが実話であるかもしれないと思い立ち、ウェールズに行くことにします。意外なことに、現地に行って現実と空想の整理をすることは、精神的に良いことだ、とゴラン医師も後押ししたため、父フランクと共にジェイクはケインホルム島に渡ることになります。

島で、口実を付けてフランクと別行動をとったジェイクは、地元の少年たちの案内で孤児院の廃墟にたどり着きます。そこは大戦下の1943年9月3日に、ドイツ空軍の爆撃で破壊されたのですが、やがてそこで、かつてエイブから聞いていた奇妙な子供たち――空気より軽い少女エマ(エラ・パーネル)や、手から炎を発するオリーヴ(ローレン・マクロスティ)、透明人間のミラード(キャメロン・キング)といった人物に実際に会うことになり、1943年の世界に行き着きます。孤児院は爆撃前の姿で立っており、ジェイクを出迎えたのは学院長ミス・ペレグリン(エヴァ・グリーン)でした。超能力を持つ奇妙な子供たちを世間から隔離するために、安全な一日を選んで「ループ」を作るのが、ペレグリンのような鳥に変身できる種族「インブリン」の仕事であり、1943年9月3日を数えきれないほど長い年月、繰り返しているというのです。ドイツ軍爆撃機の爆弾が直撃する直前で、前の日に戻る・・・永遠に続く9月3日。しかしそれは、単に世間の人とドイツ軍から子供たちを守るだけではなく、もっと別の脅威からも守る秘密がミス・ペレグリンにはあるようです。祖父エイブが異常な死に方をした、と聞いたペレグリンと子供たちに緊張が走ります。

やがて、ジェイクは奇妙な子供たちを狙う恐怖の敵バロン(サミュエル・L・ジャクソン)の存在を知り、祖父の死にそのバロンと、彼が従える化け物ホローガストが関わっていた事実を知ります。近隣のループ地ブラックプールがバロンたちに襲撃され、管理人ミス・アヴォセット(ジュディ・デンチ)が負傷して逃れてくると、事態は緊迫化。さらに、親しくなったエマから「普通の人はループの世界に入れない」と聞かされたジェイクは、自分も「奇妙な子供たち」の一人であり、特殊な能力を持っていること、祖父エイブもそうであったことを悟りますが・・・。

 

ということで、物語は思いがけない方向に急速に動いていきますが、相当に複雑なお話を力技でまとめ上げている感じ。さすがティム・バートンなのですが、しかし、案外にティム・バートン臭さはない感じもします。そこはやはり、今回は常連ジョニー・デップが出ていないからでしょうか。

エヴァ・グリーンが何と言ってもはまり役です。尋常でない人物像ですので、このぐらい存在感がある人でないと全く務まらないでしょう。現在19歳のエイサ・バターフィールドは「縞模様のパジャマの少年」で見出された逸材で、マーティン・スコセッシ監督の「ヒューゴの不思議な発明」でブレイクし、「エンダーのゲーム」でも主演、そして本作と、まさに昇り竜の若手注目株。繊細な演技が要求される本作でも、見事に演じきっております。ヒロイン格のエマを演じたエラ・パーネルは「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」などに出た後、ディズニーのヒット作「マレフィセント」でアンジェリーナ・ジョリーが扮した魔女マレフィセントの少女時代を演じて、一躍注目されました。こちらも1996年生まれで、これから有名になりそうです。そして、重鎮サミュエル・L・ジャクソンとジュディ・デンチが作品をしっかり支えています。こういうファンタジーに説得力を与えるのは、実力派の大物俳優の存在です。いい仕事をしています。その意味では、二つの時代をつなぎ全体のカギを握る祖父エイブ役のテレンス・スタンプも重要ですが、1960年代から活躍する大ベテランの演技が光ります。また、冒頭で活躍するシェリー役のオーラン・ジョーンズは「シザー・ハンズ」や「マーズ・アタック!」にも出ていたバートン監督とは縁の深い女優さんです。

ところで、こういうファンタジー映画というと、第二次大戦下の英国が舞台、というものがけっこう多いですね。そして、ドイツ空軍が必ず登場します。今回もハインケルHE111の編隊がやって来て、爆弾を落としていきます。まさに今回の隠れた主役です。ちょっと思ったのですが、ハインケルの爆弾倉は縦に爆弾を積む独特の形式だったような気がするのですが、この映画では横置きのようで、あのへんはどうなんでしょうか。

ほかにも、戦時中に軍に入隊したエイブがミス・ペレグリンに電話をかけてくるのですが、その背景で星の徽章を付けた軍用車が走っていたり、第二次大戦中のアメリカ海軍の戦艦の艦上シーンで整列した水兵を将校が検閲していたり、と細かいところで、ほんのワンシーンでとにかく手を抜かないのが素晴らしい。おや、なぜこんなシーンで日本の紙幣が映るのだろう、と思っていると、その後で東京に話がつながっていくとか・・・実に芸が細かいです。一瞬も見逃せません。後で何回も見直す必要があるような、凝った作品です。

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2017年2月10日 (金)

【映画評 感想】ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男Free State of Jones

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 「ハンガー・ゲーム」で知られるゲイリー・ロス監督が、マシュー・マコノヒー主演で製作した映画「ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男」
FREE STATE OF JONESを見ました。大物俳優の新作なのに、都内でも2か所でしか公開されていないので、私個人としてはかなり遠出となる新宿・武蔵野館まで足を運びました。この映画館がまた、規模の小さいシアターでして、ちょっともったいないな、というのが正直な感想。

 とにかく、ほとんどの日本人が知らない人物の物語で、そしてご当地のアメリカでもあまり知られていない、というこのお話。映画としてどうこういう前に、まずはこの史実を知ってほしい、と強く思いました。南北戦争時代のアメリカ南部が舞台なのです。

 南北戦争という題材そのものが、日本ではいまいち、関心を引くとは言えません。その理由の一つとして、アメリカがこの内戦をしている時期、日本も幕末の動乱から戊辰戦争へと向かう時代であり、外国の戦争より国内の戦争に目が向いていた。それは当時もそうだったし、今でもそうだ、ということだと思われます。ただ、南北戦争のために、もともとアメリカ海軍のペリーが来航したことで始まった幕末の動乱に、結果としてアメリカが介入できなかったという意味合いがあり、さらに、南北戦争の後に余剰となった武器や軍装品が、戊辰戦争時の日本に大量に送られた、という点でも、大いに日本史にかかわりがある歴史イベントだと考えられます。明治初期、西郷隆盛が建軍した初期の日本陸軍の軍装に、アメリカの軍装、特に北軍の軍装の影響が大きいのも、間接的な影響と言えましょう。

 さて、この作品は、南北戦争のさなかに、戦争に嫌気がさして南軍から脱走したミシシッピ州ジョーンズ郡の貧しい白人農民ニュートン・ナイトNewton Knight1837年~1922年)が、同じく南軍の脱走兵士や、黒人の逃亡奴隷たちを率いて、南軍にも北軍にも属しない、人種差別や貧富の差を認めない独自の政体「ジョーンズ自由州」を樹立していた、という驚くべきテーマを扱っております。いわば正式な奴隷解放よりも前に、すでに実践していた人物が実在した、というわけです。

 しかし、こういう人物の存在は、敵対勢力だった南部側はもとより、奴隷解放の手柄のお株を取られてしまう北部側から見ても、邪魔なわけでして、そのためにこの自由州と、ニュートン・ナイトの名は正統アメリカ史から黙殺されてきたのだそうです。実際、ナイトの戦いは戦争の間だけで終わらず、奴隷解放と南北戦争の終結後も、実際には南部で続いていた「年季奉公」という名の事実上の奴隷制度や、法律的には認められた黒人選挙権の事実上の否定、さらにKKK(クー・クラックス・クラン)のような白人至上主義者による黒人の虐殺、私刑・・・こういったものとも戦わなければなりませんでした。そういう圧力の中、元奴隷の黒人女性を内妻とし、彼らの教育や、参政権の確立にも尽力して85歳で亡くなったナイトという人は、まことに強靭な人物だったのでしょう。

 そして、2017年の今、こういう作品を見ると、いわゆるトランプ大統領の支持層の中に今も見え隠れする白人至上主義者の存在があまりにも露わに見えます。ああ、もう150年も前から続いている「ニュートン・ナイトの戦い」は今でも終わっていないのだな、と感じるわけです。

 本作は、2016年に公開後、一部で大きな反響を得て、アカデミー賞も有力視されていたのですが、結局、2017年の賞レースにはノミネートされませんでした。思うに、あまりにも生々しい題材なので、今のアメリカ人には直視できなかった部分もあるのではないか、と思っております。また、史実としてはどこまでが本当にあった話なのか、ジョーンズ自由州なるものの実態という点で、学術上、いろいろ問題もあるともいいます。ただ、本作でも好演しているマハーシャラ・アリは、「ムーンライト」でアカデミー助演男優賞にノミネートされているそうですね。この人は「ハンガー・ゲーム」シリーズでも有名で、今後も活躍してくれそうです。

 

 1862年、南北戦争のさなか。南軍衛生兵として従軍するニュートン・ナイト(マコノヒー)は、「黒人奴隷を20人以上所有している者は兵役を免除する」という南部の新法に激しく憤ります。彼のような、奴隷など持っていない零細農家には、もともと何の関係もない戦争です。金持ちのために貧乏人が戦う、というこの戦争に疑いを持ったナイトは、わずか14歳で徴兵された甥っ子のダニエル(ジェイコブ・ロフランド)が目の前で戦死するのを見て、ついに脱走を決意。縛り首になるのを覚悟で、ダニエルの遺体をジョーンズ郡に運びます。

 しかし、久々に戻った故郷では、情け容赦なく物資や食料を徴発していく南軍補給官バーバー中尉(ビル・タンクレディ)の暴虐により、疲れ切った女性や子供の姿がありました。やがてバーバーに銃を向けたナイトはお尋ね者となり、妻セリーナ(ケリー・ラッセル)からも見放されて身を潜めることになります。一人息子が病気のときに介護して救ってくれた黒人奴隷の女性レイチェル(ググ・バサ=ロー)の手引きで、沼地の奥にたどりついたナイトは、逃亡奴隷のモーゼス(アリ)たちと出会います。運命を諦めきっているモーゼスたちに武器を調達したナイトは、彼らを追ってきた奴隷捜索隊の連中を血祭りに上げます。

 彼らの蜂起を知って、各地から集まってきた逃亡奴隷や脱走兵たちが集結し、軍隊規模にまで大きくなっていきます。激戦の末、バーバーの上官である南軍の残酷な指揮官、フッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィ)を処刑したナイトたちは、さらに南軍の拠点を占領して1864年、ジョーンズ自由州の独立を宣言しますが、それは終わりなき戦いの序章にすぎませんでした。1865年、戦争が終わって、憲法の改正により南部の黒人奴隷はすべて解放されたはずでしたが・・・。

 さらに85年後の1950年代にもなって、また新たな問題が起きたことを映画は紹介します。ナイトの子孫であるデイビス・ナイト(ブライアン・リー・フランクリン)が、白人女性と婚姻したことが違法として、デイビスは逮捕されてしまいます。彼はナイトとレイチェルの間に生まれた二男の子孫であり、8分の1が黒人の血統である、よって白人との婚姻は違法であるというのです。この時代になっても、南部の州法では、白人と異人種との結婚は許されない犯罪行為だったのです・・・。

 

 凄惨な戦闘シーン、残虐行為や私刑、といったシーンが全編に出てくる重い作品なのですが、不思議とマコノヒーが演じていると、このどこか毅然としつつも飄々たる人物が映画の中心にいることで、単なる残酷映画じゃない説得力が生まれる感じがしますね。おそらくこの人が主演でなければ、うまく映像化できなかった作品じゃないでしょうか。モーゼス役のアリもいい味を出しており、レイチェル役のググ・バサ=ローもいいですね。普通にやってしまうと見るに堪えない陰気な話になりかねない本作を、俳優陣の持ち味で見事に作品として成り立たせている感じです。

 この作品で見る限りですが、ナイトという人は、間違っているものを見ると黙っておられず、困った人を見ると助けたくなってしまう、それで次々に面倒に巻き込まれてしまう性分の人に見えます。しかし、いつしか不満分子が彼の下に自然に集まってきて、反乱軍の大将に祭り上げられてしまう、というタイプのリーダーのようです。あえて言って、欧州ならロビン・フッド、日本史上でいえば平将門とか、西郷隆盛のような人物ですね。何か自覚的に戦略を描いたり、仕掛けたりしたわけではなく、時代が彼を求めていて、そのように自然に動いたらこうなった、ということ。その、いつの間にか、こうなっちゃったんだよ、というのを表現するには、器量の大きさ、人の好さ、自然さがないといけません。マコノヒー以外に、これほど的確にこれを演じられる人もいないでしょう。なお、本作でのナイトの主張は、人種問題よりもむしろ、貧富の格差の問題の方が前面に出ており、見ようによっては共産主義的な考え方に近いもののように描かれていますが、実在のナイトがそうであったのか、は私には分かりません。

 南軍の軍装が丁寧に再現されています。通常、南北戦争というと勝者である北軍側の描写が多く、その意味で、南軍側から描いた非常に貴重な映画です。私も、当時の南軍の灰色の軍装が、オーストリア帝国軍のものの影響を強く受けていたことは知っておりましたが、星章を着けている佐官以上の服装は調査したことがありますが、尉官以下についてはよく承知しておりません。この映画では、将校の下襟は黄色であったり、下級将校は襟にドイツ風のリッツェンを付けていたりするなど、軍服のディテールに目を奪われました。

 ところで、ナイトたちにしても、敵対する連中にしても、この映画の世界で物を言うのは、最後は銃なのです。要するに力こそ正義。たとえ黒人奴隷であっても、銃を持って武装していたら相手も言うことを聞くしかない。結局、西部劇の世界です。選挙の投票という最も民主的であるべき場でさえ、妨害する勢力も、投票しようとする側もどちらも銃を構えて恫喝しあうシーンがあります。南北戦争で銃器の扱いに手慣れた連中が、そのまま戦後も銃を構えた正義を主張し続けたのが西部劇的な世界で、いわば戦国時代の後に刀狩をしなかったらどうなったか、という歴史なのだと思います。アメリカ人が、今に至るまで銃による正義を主張し続けるのはなぜか、というのも、このへんに原点があるのだろうという感想も抱きました。

 アメリカ人が長らく自慢してきた自由とか平等とか、民主主義とかいう観念が一体、なんであるのか。外国人である我々から2017年の現代の目で見たときに、それが非常に綺麗ごとと矛盾に満ちたおかしなものに映るわけですが、歴史的に紐解くことで、もうこのへんからさほど進歩していないのだよ、という描き方をしたのが本作だろうと思います。このような時代に一石を投じた監督と出演者に、敬意を表したいと思いました。おそらく、アメリカの一部の人たちは、この作品の内容に反発したのではないかとも想像されます。

 せっかくこういう作品を日本でも公開しているのですから、少しでも多くの方に見てほしいと思いました。どう感じるのであれ、問題作であることは間違いないです。また、私個人としては、劇映画としても非常に見応えある一作だったと思います。

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