2010年4月 8日 (木)

4月は鬼門? ヒロ・ヤナギマチ3回目!

 球界のキムタクこと巨人軍の木村コーチが、37歳の若さでクモ膜下出血で亡くなったのは、驚きました。この病名、案外に知らない人はよく知らないのかもしれませんが、私と私の家族の間では有名です・・・なんといっても私の母親が、今からもう30年も前にクモ膜下出血で倒れてるからです、が、幸いに生還しており、今でも元気でおります。当時、39歳だったのじゃないかと思いますので、木村コーチと同じ年代です。 
 とはいえ、その当時は今よりももっとこの病名は知られておらず、医師からは「数年前までは、なんでも卒中、脳溢血で片づけていた。CTスキャン(当時、最先端医療でした)ができて初めて病名が分離してきた」という説明を受けた記憶があります。脳の下の方のクモ膜の下部の出血ということで、かなり内側なので手術も難易度が高い。その当時だとはっきり言って、生還率は五分五分でした。今はかなり成績が上がっているようで、今回の報道で、生還率は6、7割になっているらしいことが分かりました。
 ストレスが引き金になるのはまず、本当だと思います。うちの母親もその当時、父の仕事の都合で引っ越しが多く、またそこに中学生の手のかかるガキ(つまり私です)がいて、もろもろの心労があったのだろうと思われます。
 母の倒れたのがそういえば4月でした。そういえばですが、私が胆石で入院したのも昨年の今頃です。それから、母親もまた胆石で入院していますけれど、これも不思議にも4月でした。なんでも病院で聞くと、3月から4月というのは病気になる人が多い。陽気の変わり目だが、不順で、今年もそうですが冬のように寒い日や、初夏のように暑い日が交互にやってきたりします。それにこの時期は環境が変わる人が多い。新年度ですから。そういうことで身体に変調をきたす人が多いようです。
 思い返せば、私が22歳のときに盲腸で入院したのも4月でした。さらにいうと、実は私の職場の上司が、会社から病院に担ぎ込まれて、いま入院していますが、やはり盲腸です。そんなこんなで、4月ごろは要注意、というのは本当だと思います。どうぞ皆様もご注意ください。
 ◆  ◆  ◆
 ヒロ・ヤナギマチ・ワークショップに3回目のフィッティング(!)に。「いやあ。辻元さんの足はなかなか悩ましいです」と柳町さん。とにかく太くて短い足(脚、じゃなくて足がです。もっとも、脚もそうですが)で、幅で合わせると妙に長くなり、長さを押さえれば窮屈になり、難しいのだそうであります。
 しかし試作靴を履いても、特に土ふまずのところにぴたっと合うアーチ部分の気持ちよさというのが、既製品ではまずありえないと思います。やっぱり違いますわ。
 そういうわけで、私の場合は、非常にスクラッチ・オーダーするに値する足、だったようでございます。
 

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2009年10月29日 (木)

インフルエンザ予防接種(ただし季節性)。

 おおっと、ぼんやりしていたらもう月末だ。さてそれで、我が家はもう来る日も来る日も夫婦そろって原稿書き(描き)の日々でして、あんまりなんもほかのことはしておりません、最近。ではありますが、昨日は毎年恒例の年中行事・・・「インフルエンザの予防接種」をしてまいりましたけれど。なんかやっぱりだるいですわ・・・身体の免疫機能がいま、必死で予行演習をしているのですよね。もちろん「新型」じゃなくて「従来型」ワクチンです。
 しかし最近の報道で、やはり明らかに子供と大人じゃ罹患率に差がありすぎる、行動範囲が広く、満員電車や職場でウイルスに接する率は、毎日、学校を行き帰りしているだけの児童生徒より絶対、大人のほうが危険が高いはず。なのに子供の発症が多すぎるのは、子供にはそもそもウイルス免疫ができていない、というんですね。大人は年の功というか、やはり長年の蓄積でウイルス全般への普遍的な適応が出来ているから、新型であっても無から対応するのじゃない、だから子供より強い、と。
 毎年、予防接種している人はますます強いのは確かである、ともいいます。いろいろ懐疑的なことをいう人もいましたが、今年の傾向を見ていると、やっぱり何もしてない人より、手を打っている人のほうが強いらしい。
 ま、懐疑するにしてもしないにしてもです、どのみち今年はワクチンの在庫が薄いので、品切れも近い、というような話もあります。後でやりたいといっても品物がなければどうにもならないわけで、私はさっさとやりました。
 聞けば、私の母親の住んでいる町では、近所の学校で閉鎖になってから近隣住民が殺到、予約待ち状態で11月にならないと注射してくれないらしいです。
 むろん、かかるときにはかかるわけです。何をしたって運が悪ければ、かかるんでしょう。これをやれば絶対大丈夫なんてことはありません。
 何事によらず、いまどきは自分で判断する、というのが大事なんだろうと思います。

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2009年5月15日 (金)

入院とゲームとへそのゴマと。

 なかなか2か月以上も寝て暮らしていたので、体力万全とはいきませんが、少し近くを出歩いてみております。まあやはり、足腰が弱っているのと、食後に休みが必要、という感じですが、しかし1週間が過ぎてかなり感じが戻ってきました。
 先日など、携帯電話の万歩計を見ると9000歩以上歩いていましたので、まあこのぐらい歩ければなんとかなるかな、と。ただ、疲労がまだちょっと早いかな、という自覚がありますので、とにかくゆっくりやらしていただきます。
 といいつつ、2か月もの間、自分の仕事も、また毎日、病院に来てくれた妻のほうの仕事も停滞しておりましたので、そのへんも少しでも取り戻せるように、と思っております。
 ところで、入院中に私は、結局のところテレビはつまらないので(今やどこの病院も床頭台にテレビ設置が標準ですが、本当に入院患者の人がみな怒っているんです、暇つぶしにならない、というのです)とうとう携帯ゲーム機を買い込みました。それも二台も。PSPとDSです。そしてほとんどの時間を、ゲームをして過ごしました。
 特にDSの「シムシティDS2」と「レイトン教授の最後の時間旅行」、PSPの「戦国天下統一」「注文しようぜ! 俺たちの世界」「羊くんならキスしてあげる☆」にはお世話になりました。本当にこのへんがなかったら乗り切れなかったと思います。ほかにもいっぺんに10本ほどソフトも買い込みましたが・・・まあ我ながらなんですね(笑)。
 ◆  ◆  ◆
 そういえば、前の胆石症の記録で書き落としたことがあるので補足。まず胆石発作のある人は①油もの②乳製品③卵、とくに卵白・・・だからホイップクリームなんかも×、です。これらは胆嚢を収縮させ石を動かします。また、手術の前にはへその掃除をされました。なんでだろうと思っていましたが、へその穴を切開したのでなるほどでした。ほかに普通は胸や腹、脚などを除毛しますが・・・私の場合は日頃から自分で無駄毛を剃っているので、看護師さんに「わ、きれい。まったく必要ないですね」と感動されました。

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2009年5月 9日 (土)

胆石症、総胆管結石、腹腔鏡下胆嚢摘出術の顛末

 ということで、ようやく退院いたしました。御関係の皆さま、ご迷惑をおかけいたしましたがいろいろお気づかいをいただきましてありがとうございました。
 ・・・と、こう書いて、詳細をご存じない方もおいでのはずなので書きますと、3月の半ばからここまでに入院3回、手術2回、ということになりました。病名は胆石症、胆嚢炎、および総胆管結石、ということでした。
 ◆  ◆  ◆
 3月13日、夜になって腹部に激痛が走りましたが、3時間ほどで回復したため「もしまたこういうことがあったら病院に行こう」と思いそのまま観察。
 そして3月18日朝、再び同じような激痛があり、タクシーで最寄りの病院に、と思いましたが我慢しがたく、救急車を呼びました。
 担ぎ込まれた病院で「右腹部が痛いなら胆石の可能性も」といわれ、自分もひょっとしたら、と思いました。翌日、CT検査と超音波検査で胆石と断定、肝機能の数値が極度に悪くそのまま入院、絶飲食で点滴、となりました。
 このU病院で、3月19日から27日までお世話になりましたが、肝機能が安定したためいったん退院。土日をはさみ30日に、U病院の紹介状を携えてJ大学病院を受診しましたところ、手術を前提に検査、と指示されまして、またレントゲン、CT、心電図などの測定をするとともに、総胆管結石がある以上、外科的手術の前に十二指腸乳頭部の切開手術(EST)を内科で受けてくれ、といわれました。
 そこで4月1日に内科を受診し、6日に入院、即日にESTを施行と告げられました。これは内視鏡で口から十二指腸に達して総胆管と十二指腸の間の乳頭部という部位を切開、これ以上胆嚢から胆石が落石してきてもつまらないようにする措置です。
 まずは麻酔薬でうがい、ついで麻酔ゼリーを5分間、口に含み、さらに麻酔薬を飲み干しまして・・・しかしマウスピースは大きなもので、生まれつきものを飲み込んだり口を大きくあけるのが苦手な自分には地獄の苦しみでしたが・・・その後、点滴で傾眠状態に入って内視鏡そのものは難なく入りました。しかし・・・切開となると激痛が走り、どうも私はそのへん、麻酔の効きが悪いらしく、ふつうは記憶に残らないのでしょうが、はっきり記憶に残っていまして、「ぐわああ」とうめいてもがいたのを覚えております。
 いやあ、案ずるより産むがやすし、は嘘ですね。完全に産むより案ずるがやすし。
 とまあ、かなり苦痛を伴う切開術でしたがなんとかクリア。その後、合併症などもありうるので10日まで入院しました。
 13日に再び外科に戻って、さらに検査を求められましたが・・・なんと上部消化器を念のために検査するため、またも内視鏡を、と言われこの世の終わりのような絶望感にとらわれました。
 が、医師の指示なのでしかたなく15日にまたも内視鏡検査。今度は傾眠にしないで試しにのんでみましたが、まったくダメで内視鏡を吐き出してしまいました。そんなわけでまた点滴をやり・・・30分で終わるはずが、麻酔さめるまで2時間ほど、またまたひどい目にあいました。いや本当に内視鏡にはトラウマができてしまいました。
 さらに肺活量検査やエコー検査をやって、4月27日に入院、28日に腹腔鏡下胆嚢摘出術、と決定しました。これは大きく開腹せず、胸の中央、右胸部、それにヘソの部分の3か所(場合により4か所)をレーザーメスで切開し、腹腔鏡を差し入れ、肝臓を持ち上げて裏側の胆嚢を探り、胆管をクリップで閉じて、胆嚢を切り取り、ヘソを切り開いた穴から取り出す、というものです。昔は胆石というと大きく腹部を切開し、内臓を全部取り出して裏側の胆嚢を取り出しましたが、1990年ごろから腹腔鏡手術が一般化し、今ではこちらが第一選択、難しい場合にのみ昔のような大きい開腹、ということだそうです。  
 事前にいろいろ調べて、全身麻酔による胆嚢の手術にはイメージがありましたが、とにかく自分の場合は胆石の中では、黄疸まで出たかなり重症のほうなので、炎症、癒着の程度によってはよくある「日帰り胆石手術」のような簡単にいかないことも想定され、かなり不安でした。
 手術前日、ひそかに恐れていた「浣腸」とか「2リットルに及ぶ下剤の服用」とかはなく(下部消化器の手術ではそのような苦痛を伴う準備措置があるようです)、単に下剤として錠剤を二粒、飲むだけですみました。麻酔医、執刀医の説明があり(例によっていろいろリスクを聞かされ、脅されますがまあ想像の範囲内です。全身麻酔の手術ですから万一の場合があるのは当然です)、午後9時から絶食、0時から絶飲食。
 翌28日朝、まずは点滴、それからこれも恐れていた「鼻管」・・・これは胃液を吸い出して万が一の嘔吐の場合、胃液が肺に入ることを防ぐ措置です・・・を医師が鼻から通そうとしましたが、ものすごく苦痛でやっぱり駄目。とにかく私には口や鼻から何かを通すのは全部ダメなんですが、そこで、この管も麻酔で気絶した後に入れてもらうことにしました。
 ほかに、麻酔中に尿管・・・つまり膀胱にチューブを入れ小水を採るものですが、意識がある場合には激痛を伴いますがこれも気絶中に、さらに麻酔をかけると喉に気管挿入といって太いチューブを押し込み呼吸をコントロールしますが、これも気絶中にやります。もちろん普通の状態じゃ絶対にそんなもの、喉に押し込めません。よく全身麻酔の手術ではたばこを吸う人は危険、というのは、気管挿入すると痰が多く出るので危険が伴うのだそうです。また術後も喉がどうしても傷むため、普通の人より痰で苦しむことになります。
 9時に手術室までベッドで運ばれ、そこで浴衣を脱ぎ、手術台に横たわりました。背中から脊髄に注射する下半身局部麻酔と違い、全身麻酔ですのでまずl口にマスクを着け、点滴しながら眠りに入るというものです。
 一番心配していたのが麻酔の効き具合で、前に歯医者でも、また前回のESTでも点滴程度ではかなり意識が残っており、自分は効きにくいかも、という不安がありました。よくいわれる「3つ数えてください」というのはここの病院ではなく、マスクを当てられて数秒、
 「はい、そろそろ効いてきましたか」と聞かれました。「うーん、ダメなようですな」
「・・・そろそろ、効いてきましたか」「いやあ・・・まだ駄目ですね」
「・・・・・・そろそろどうでしょうか」「うーん・・・まあ、そろそろ・・・」
 こういうやりとりを3回、したところで私はようやく気を失ったようです。
 そして、この効いたか、効かないかというやりとりがまだ繰り返されているのか、と自分では思っているうちに(つまり4回目の質問が来るのかな、と思った瞬間に)意外なことに麻酔医から聞かされた言葉は「はい、辻元さん、終わりましたよ」でした。
「お、そうですか・・・なんか、やり取りしてる間に終わりましたね」
「やり取りしてる間、ですか?」と医師がちょっと面白がるように言いました。
「何時ですか」「11時半です」「おや、早いですね。じゃあ順調だったんですね」
「はい、順調でした」
 そんなやりとりをしましたので、まったく意識ははっきりしたまま病室に戻りました。
 しかし徐々に麻酔がさめてくると激痛が襲ってきました。いかに腹腔鏡下の手術とはいえ開腹しているのだから当然です。幸い、これも鎮痛剤を入れてもらって30分ほどで緩和。
 24時間後、心電図と尿管を抜いてもらい・・・この尿管を抜く、というのがまたかなり激痛というか、気持ち悪いのですが、とにかく抜いてもらい、まもなく点滴も終わって、術後1日で、早くも立って歩けるようになりました。傷口は痛いですがまあ、それほどのこともありません。29日の昼からは食事も再開しました。場合により肝臓にドレーン(管)が残る場合もあるようですが、今回はそれもありませんでした。麻酔の気管挿入のため痰も出て身を起こせない間は苦痛でしたが(咳払いするだけで傷口が痛みますし)それも3日ほどで完全になくなりました。
 そして・・・以後の経過は良好で、合併症も起こらず、傷口も問題なく、5月の7日午後に退院となったわけです。
 ◆  ◆  ◆
 結局、入院日数はトータルで25日、手術2回、検査はもろもろで20回ほど。大変なことになってしまいました。世間一般では胆石というとごく軽い病気と受け取る人が多いようですが、それは発症していない状態で、私のように総胆管がつまり黄疸が出て肝臓の合併症までいっているとそう簡単ではすみません。このように2、3か月はかかってしまいます。手術の経過によればさらにもっとかかったかもしれません。
 実はここ1年ほど、ストレスがあったり少し重いものを食べると胃が痛い、と思っていました。特に日頃から早食いで体力に自信があって無理をしてしまうような人のほうが、かえってこの病気にはかかりやすいものです。私もそうでした。
 3月ぐらいからかなり悪くなっていたようで、3月13日の最初の発作以前、たまたま撮った写真を見ても、顔がむくんでいてどす黒いというか、悪い顔色なんです。この段階で気づいていればもっと楽にすんだのでしょう。
 そして、発作が起こらなければもっと悪くなるまで気づかず、最悪の場合、命取りになったかもしれません。不幸中の幸いだったのかもしれない、と思っております。なんにしても胆石の激痛(それは本当にきついもので、脂汗がにじんで立っていることも座っていることもできないような苦痛です)も結局、2回経験しただけで済みました。
 ◆  ◆  ◆
 と、こんな具合で私の胆石症との戦いは一応、終わりました。2か月も寝ていたので体力が低下しておりますが、徐々に回復していくと思います。もし、これから胆石や全身麻酔の手術をされる方のために、一応、経過を書いておきました(私も手術の前にいろいろな方のブログやサイトを拝見して参考にしましたので)。
 ご参考になりましたら幸いです。個人的には、全身麻酔もかなり不安なものですが、2度の内視鏡のほうがいやな記憶が残りましたね。
 
 
 

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2008年4月27日 (日)

本を出版する方法

それにしてもウィンドウズ・ビスタ、使いにくいですね。なんでこう面倒なものにしたのかな。普通のユーザーは性能や安全性はは高めてほしいが、機能や操作はあまり変えてほしくないのじゃないかと思いますが。
 ところで、身近の人から「本というのはどうやって出すものなんですか」と聞かれました。それで、ご存じの人にはありきたりの話ばかりでしょうが、こういう世界に無縁な人とか、漠然と「いずれ著者になってみたい」という方もいらっしゃるでしょうから、自分の経験の範囲で少し書いておきます。
 いわゆる自費出版については自費出版専門の版元があるのは今では誰でも知っていますし、それがこのところ経営破たんしたり、大変であることも知られています。要するにハードルが低くて誰でも出版してくれる反面、後の面倒は全然みてくれないので、著者の不満が高まったのは当然です。そもそも基準が甘いのだから、仕方ないとは言えます。
 大体のところ、ああいうところで全額自費で出版すると、まあ100万円ぐらいが最低出資額だと思います。企画によってもっと安いところもあるでしょうが、まあ宣伝を万全にやり、豪華な造りにし、部数を増せば上限はいくらでも上がるでしょう。200~300万円出した人もいると思います。
 次に、ちゃんとした商業出版社からの企画出版をするにはどうするか。まずは、一番、王道なのはなにかの文芸賞をもらってデビューすることです。しかし、これは才能がある人であっても一生の間に受賞できるかどうかは相当に運次第なのは明らかで、その僥倖を待っていてはいつまでたってもデビューできません、というかなにがなんでもデビューしたい、というなら、30代半ばぐらいまでの若い内はともかく、受賞を前提にしているわけにはいかないでしょう。それに、どなたもお気づきのように、世間に出回っている書籍のほとんどは別に文学賞をとった作家が書いているわけではありません。著者になるには文学賞は必須条件ではないことになります。
 文学賞タイトルが絶対必要なのは、文芸作品の企画出版です。だから、無名の人が文芸作品の原稿を版元に送ったり持ち込んでも、まあほとんどの場合、何事も起こりません。見てもくれません、通常は。漫画と違い、持ち込まれても簡単に概要を理解できないので、時間を作ってくれないのが普通でしょう。ごくまれにそれでうまくいった、という話がありますが、それはいい編集者と縁があったためで、まれだからそういう話が有名になるんですね。
 もし文芸でとにかくデビューしたい、という人は、実は小説よりも詩歌のほうが本そのものは出しやすいのですが、ただしこれはほぼ100%が自費出版となります。流通することはゼロではないが、ほとんど期待できません。しかし、詩歌については自費出版が昔から常識なので、ほかの分野と違い自費だから格が低いとは言われない、というメリットがあります。つまりちゃんと実績になる。詩歌の世界の文学賞の審査対象にもなるし、詩歌の世界で一人前として扱われる。ただし、そういうわけだから詩歌の専門の版元は、お金の面では自費なのに、けっこう審査基準は厳しく、なんでもいいから出してくれる普通の自費出版社のようにはいきません。通常は、既に実績のある先生の下でしばらく様子を見て、その紹介を得る、といった手順を踏んだ方が確実です。
 さてそれで、本当に版元の企画出版として出してもらうにはどうするか。こちらは、文芸を狙わない方が間違いなく有利です。小説のたぐいはあまり相手にされません、どうしても小説家に、という人はなにがなんでも文学賞をとるしかないでしょう。しかし「とにかく著者になりたい」ということなら、文芸じゃない分野でまずは何か原稿を書くことです。
 次に、その原稿を持って多くの版元を大きいところから小さいところまで回ってみることです。私の今までの経験ですと、非文芸でそれなりの内容の原稿だと、大抵の版元は読んでくれます。50~60社ぐらい打診すると内容次第でしょうが、10社ぐらいから前向きな返事が来たりしましてその後は具体的な条件交渉に入ったり、あるいは、この企画はこのままじゃ駄目だけど、別の企画で書きませんか、という話になったりします。まあこれはあくまで私の経験です。
 一度、それで軌道に乗ると、少しずつほゥの話も見えてきたり、ものによっては空中分解したり、という中で、形になるモノが出てきます。そして、やっと企画出版できるというわけです・・・。この場合も、いい編集者と縁があるかないか、が最も重要になります。自分に惚れ込んでくれるような編集者に巡り会えばいうことはありません。逆に大手版元から声がかかっても、担当編集者と反りが合わず駄目になる、ということも私自身経験していますので、結局は人の縁ほど大事なモノはない、というのはどこの世界でも真理です。
 これも、ある程度の買い取りを求められることが珍しくないですが、しかし経験的にいって著書は100冊以上は手元に残しておくべきです。その後、次の企画の売り込みやらなんやらで、けっこう2、3年もするとなくなってしまいます(50社に売り込むなら50冊ななくなりますから)。新聞社や雑誌社に売り込みをするならもっと必要でしょう。だから200冊ぐらいを買い取りしても後で見ると、別に無駄にはなりません。
 その買い取りをしても、20~40万円ほどですから、100万円以上かかる自費出版とは全く次元が違うし、宣伝もしてくれるし、流通もちゃんとしてくれます。従って、なにがなんでも自費ではなくて企画出版しないといけない、ということです。
 印税なんてものは実に微々たるモノで、入ってきてもお小遣い程度です。これで生活できる著者は部数10万部を超える人だけで、今の出版不況下でそんなに売れる人は、そういません。1000円の本が1万部売れて売り上げ1千万円、印税5%なら50万円。まあこれなら赤字にはならない、お小遣いとしてはいいかな、というところ。10万部売れれば500万円、こうなると職業として意識できるでしょう。本の単価が高ければ印税も増えるでしょうが、それだけ部数は伸び悩むのは言うまでもありません。
 にしても、ロングセラーとなるような内容で、増し刷りにこぎ着ければ、れっきとした著者としてやっていけることになります。少なくとも赤字のない程度にやれれば、活動としては成り立つことになる。ただ、プロのライターだけで暮らすというのなら、常に1万部以上、できれば10万部を超えるような売れるような本を出す必要があり、大変でしょう。
 また、著書があると、ほかの雑誌などの依頼がある場合がある、また文芸家協会やペンクラブに入れる(著書3冊以上が最低条件で、いずでも理事の先生の推薦が必要)といったことがあります。ここまでくれば、一応、どこに行っても「私は文筆家です」と名乗れるレベルには達するわけです。当然、次の売り込みがしやすくなります。儲かる、儲からないという次元ではなく、その方面で一応の見識がある人、専門家、ということも言われるようになります(内容次第ですけど)。
 それ以後は、本人の努力次第でしょうし、私も目下、努力している次第です。
 とにかく、こういう時代でもいわゆる活字をやってみたい、まずはデビューしてみたいという方は、ベテラン世代にも若い人にも多いと思います。しかし上記のようなわけで、最初の1冊を形にするまでに相当な信念と行動力が必要なようで、著者の皆さんはそこを乗り越えてこられた方ばかりということです。
 参考までに書いてみました。お役に立つことあれば幸いです。
 
 

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2008年4月 5日 (土)

「後期高齢者」・・・。それと「スーツ=軍服」の宣伝

 それにしても、なんでかしら、大変なことになる、大変なことになる、と脅かす人がいますよね、テレビなんかで。いつでも暢気ではバカだけど、だからといって大変だ、大変だと騒ぐほどこのこともない、ということも多いような。インド洋の給油が途切れたって何事もなかったし、ガソリンのこともまあ、関係者には申し訳ないんだけど一般レベルではそれだけのもんだし、日銀総裁なんてのは本当に大勢になんら影響ないし。
 なんかこう、あまり過剰に騒ぎなさんな、と思うことがあります。一般論として。
 ◆   ◆   ◆
 「後期高齢者」という名称に怒った方が多いと思います。確かに事務的というか機械的です。厚生労働省さんですが、あそこの職員さんは皆さん、必ず結婚していて子どもが3人以上おり、お腹の周りは85センチ以下で、70歳ぐらいまでで死んで、年金はもらわず辞退し、という「模範的な健康的かつ見事な産む機械払う機械」ばかりなんでしょうか。もしそうなっているなら、国民に色々言う資格もあるでしょう。
 ◆   ◆   ◆
 「スーツ=軍服!?」http://www.hanmoto.com/bd/ISBN978-4-7791-1305-5.htmlですが、けっこうゆっくりと・・・まあ、ロングセラーねらいなんですが筆者としては。どうかまだ読んでらっしゃらない方、よろしくお願いします。アマゾンの在庫があと2冊だとか。どうかここは一つ(まるで選挙みたいでございます)。
 実はもう、聞けばびっくりするような大物の方からご激励をいただきびっくりしています。名前は秘しますが。御縁のある方はいらっしゃるんですね。
 すべての御縁のある方といい出合いがあることを、心から願っております。
 

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2008年3月30日 (日)

柳町弘之さんの工房訪問

今月の10日に出版した「スーツ=軍服!?」(彩流社)http://item.rakuten.co.jp/book/5502033/で、もう一つ、意外な御縁が出来ました。いやあ、こういうことがあると、出版して良かったな、と思います。
 靴が好きな皆さんならご存じの、日本を代表するビスポーク靴職人・柳町弘之さんのことであります。先日、発効されたエスクァイア・マガジン社の靴専門誌「LAST」巻頭の情報コーナーにもあるとおり、柳町さんは99年以来、店舗を置いていたワールドフッドウェア・ギャラリーから、この2月、ほど近いところに独立店舗を構えられたのであります。http://www.wfg-net.com/order.html
 で、それで私と何の関係が、と思われるでしょう。実は私、大学生時代に、千葉市稲毛駅前の「千葉進学塾」なる塾でアルバイト講師をしていました。で、その当時のバイト仲間に柳町先生、という人がおいでになった。千葉大学の理科系の大学院においで、ということでちょっとクール、というか理知的、だけど穏やか。われわれはバブル時代のお馬鹿学部生でしたので、まあ乗りが違うというか、際だって紳士、大人に見えました。まああのぐらいの時期に3、4歳の差は大きいですよね。
 さてそれから十数年後。私はたまたま、靴というものに関心を持つようになり、35、6歳になってそれまで愛用していたギョーザ靴が急に嫌になってしまった。実は、私はそれまで軍装や戦史には大いに興味があったけれど、現代のファッションにはまるで関心がなく、靴なんかも3000円のオヤジ靴で平気でありました。
 が、気になり出すと気になるもんで、手始めにクロケット&ジョーンズ、それ以後、いろいろとそれなりの靴を買うようになりまして。で、靴を良くするとスーツもネクタイも全部それなりにしたくなりまして。で、紳士服飾の本を落合正勝さんほか、出回ってるものを片端から読みあさり、雑誌も月に6、7冊は乱読し、今に至っております。ついに上記のような本まで出す始末です。
 で、そんなある日、ある雑誌(メンズEXかbeginだったと思いますが)で、日本を代表する靴職人ヒロ・ヤナギマチなる人物を知ったのでります。
 ところが、その時点ではなんとも思わなかった。その後、なにかのサイトで柳町さんの顔写真を見て「お?」と思ったのです。これはあの塾の仲間だった人じゃないのか。
 さらに経歴を見れば、千葉大学大学院修了後、電機メーカーに就職、その後に渡英、などとあり年齢的にもますます「ひょっとして」との感を強めておりました。
 が、人違いであったら困ってしまうので、WFGの店舗の前を通っても思い切って柳町さんのブースを訪れることはかなわなかったのであります。
 が、上記の本を出したことで、私も一種の大義名分が出来たというか、著名人に献本するのは普通のことだし、それで思い切って柳町さんの新店舗に新刊をお贈りし「ところで、ひょっとしてかつて、千葉市で塾の先生をなさっていませんでしたか」と書きましたら・・・数日後「驚きました、千葉進学塾の柳町です(笑)」というメールが届いた次第。
 ということで、私、柳町さんの新店舗にお邪魔しました。国立競技場のほど近く、閑静な場所柄で周辺は服飾関係の卸しをしているようなお店が多いところ。柳町さんのお店は、いい感じの落ち着いたテナントビルの二階にあります。たまたま外に出ていた柳町さんが「あ、辻元さん」と声をかけてくださいました。実に20年ぶりの再会。
 「ああ、そのお辞儀の仕方、昔から辻元さんはそうでしたね」と仰る。そんなに特徴あるお辞儀を自分はするのかしら。どうも軍人風に素早く頭を下げる癖があるので、そのへんが変わって見えるらしいのですが、それ以後、なんか20年ぶりというのがウソのように話し込んでしまいました。かれこれ1時間半もお邪魔しましたか。
 「これからの時代、使い捨てではないものが普及してほしい」と仰る柳町さんに満腔の共感を覚えました。安いものを外国人に作らせ、石油を消費して輸送する、トータルで値段を抑えて大量生産浪費・・・。結果として、日本人の生活水準が低下し格差が拡大しても、外国製の安いものを買っていれば貧乏人は文句を言わないだろう。これが竹中路線のグローバル化の一側面ですが、これ、なんか違うんじゃないか、と私も思っています。
 「靴のビスポークは初回で25万円ほど、2回目からは平均して20万円ほど。これを量産品と同じ靴として比較されると高いということになるのでしょうが、切実に足に合う靴がほしい、というお客さんは安いと仰る。結局、価値観の問題」。まさにそう思うし、現にその場で作業している二人の若い職人さんを見ていると、全部ここで手作りして20万円前後は非常に安い、と思うのは確かです。月あたり生産数を聞きましたが、それで考えてもこれは安すぎるのかも、とすら思いました。
 それにしてもいい感じのお店です。落ち着いたカフェのような佇まいで明るく、採光も行き届いていて、工房という雑然としたイメージとは違います。柳町さんのお人柄でしょうし、実際「そのへんはこだわっています」とのことでした。
 私が今後、何か書くときにはぜひ教えてください、と言いましたら「靴作りの実務に関してならなんなりと。でも歴史については、靴は分かんないんですよね、19世紀以前というのは」とのこと。そうなんですよね、靴の体系的歴史って書かれていません。
 これは、ゆくゆくまた、自分で書くしかないのかな・・・などと。
 とにかく本当に有意義、そして楽しい20年ぶりの再会でした。
 

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