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2020年1月29日 (水)

【映画評 感想】キャッツ

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映画版「キャッツ」Catsを見ました。アメリカで酷評され、同時期に「スター・ウォーズ」最終章と、「アナ雪」続編という強敵が上映されたことも加わって、興行的にも惨敗。そんな話が伝わって、どんなものかと思いました。しかし、私は劇団四季の劇場版ミュージカルも見たことがあるのですが、そこまで酷評されるような作品だろうか、と思いました。個人的には、すごく良かったのです。

 

 

 

おそらく、いわゆる「不気味の谷」現象というもの。つまり人間そのものの動き、表情、という精度が高すぎるのに、明らかにネコというキャラが生理的にダメ、という人が多いのが最大の敗因だと思います。CG処理が気持ち悪い。大方の悪評がこれでした。しかし、もともとキャッツというのは、ネコの格好をした俳優がネコになりきって歌い踊る、という、相当に奇天烈な舞台であり、1981年にミュージカルが大ヒットしたとき、むしろどうしてあれがあんなに支持されたのか、不思議なようなものでした。

 

 

 

ひとえにアンドリュー・ロイド=ウェバーの楽曲が素晴らしいこと、特に「メモリー」が名曲すぎること。これに尽きたと思います。1939年に文豪TS・エリオットが書いた原作は、子供向けに書かれた詩集であり、ストーリーも設定もない小品です。これに壮大華麗な楽曲をつけ、ダンスを振り付け、一大舞台芸術に仕立て上げたロイド=ウェバーとキャメロン・マッキントッシュの才能が最大限に発揮された所産、という感じです。

 

 

 

舞台では、俳優たちは着ぐるみをつけて派手なメイクをし、ネコになりきって演技しますが、不思議とステージでは違和感がありません。どう見ても「ネコの振りをしている俳優」が熱演しているのであり、すぐに客席は一体感に包まれて、最初に受ける奇妙な感じを忘れ去ります。客席とステージの間にはオーケストラ・ピットがあり、俳優たちはかなり遠くで演技をしています。それもあって、違和感はすぐに払拭されるものです。

 

 

 

しかし映画化というのは、そこが難しいところで、芝居を遠くから撮影しているような演出では、単なる芝居のドキュメンタリーになってしまいます。当然、大写しにしたり、表情のドアップが挟まったり、舞台よりも精緻なディテール表現が求められる一方で、ライブの魅力、一回限りの緊張感、といったものは削がれてしまいます。いわば、生でスポーツの試合を見るのと、その結果を録画した再放送を見るぐらいの差異があります。トム・フーパー監督は、撮影時に俳優の生の歌声を同時録音する(後で音入れをしない)、という手法でライブ感を維持することで、この映画化の壁を乗り越え、「レ・ミゼラブル」ではミュージカルの実写化として大きな成功を収めました。しかし今度はハードルが髙かったようです。

 

 

 

今回の映画化で採用されたのは、俳優たちの演技をモーション・キャプチャーで撮影し、ネコの毛皮を後で画像処理して貼り付ける、という手法です。どうもこれが、よくなかったようです。やはり舞台と同じように、俳優たちには大変ですが、メイクや着ぐるみを付けてもらって、「ネコになりきった俳優」として演じてもらう方が正解だった気がします。確かに今作のキャラクターは「人間化した不気味なネコ」になってしまっています。舞台版の俳優たちでは出来ないこと、シッポや耳の動きを本物のネコのように自在に動くようにしたのも、かえって痛かったように見えます。

 

 

 

むしろ、あまりネコになっていない、ほとんどその人そのまま、という感じのジュディ・デンチとイアン・マッケランのベテラン二人の演技が、驚くほどいつもの本人そのものであるように見えたのも事実。マッケラン自身が「私はネコを演じてはいないし、ネコになろうともしていない」とコメントしているのは、そのへんの違和感というのを、長い芸歴からくる直観で、事前に洞察していたからかもしれません。マッケランが猫界の老俳優になって、「近頃の若い奴らの芝居はなっていない」と叱りつけ、往年の当たり役を披露する、というくだりの説得力は迫力があって、全編の中でも際立っています。日本語版では宝田明さんが担当しているのも、うなずけるところです。

 

 

 

【ストーリー】満月が輝く夜、ゴミ捨て場に放り出された子猫ヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)。そこで彼女が出会ったのは、陽気に歌い、踊る「ジェリクル・キャッツ」の面々でした。その夜は、ネコたちの一年に一度の舞踏会が開かれる日。長老デュトロノミー(ジュディ・デンチ)に選ばれた、たった一匹のネコだけが、天上の世界に昇って「本来の自分」に生まれ変わる日です。

 

 

 

個性豊かなネコたちと触れ合う中で、臆病なヴィクトリアも、自分というものを取り戻していきます。そんな中、かつては華やかなスターだったのに、落ちぶれて、今ではみんなに忌み嫌われる年老いたグリザベラ(ジェニファー・ハドソン)の寂しい後ろ姿に、ヴィクトリアは心惹かれます。

 

 

 

一方、この日の饗宴を妨害しようと企む悪者、お尋ね者のマキャヴィティ(イドリス・エルバ)とボンバルリーナ(テイラー・スウィフト)の暗躍がちらつき、何やら不穏な空気も立ち込めます。やがて、月が昇り切り、ネコたちが躍動する中、今年の一匹が選ばれる瞬間が近づいてきますが…。【ストーリーここまで】

 

 

 

私は今回まで知りませんでしたが、81年の舞台版の初演で、ジュディ・デンチはグリザベラ役に決まっており、本来なら、初代の「メモリー」を歌う歌手、となるはずだったそうです。このときはケガで降板し、今回は40年ぶりに長老ネコとして登場することになったそうです。舞台版では男優がやる長老をデンチにしたことで、彼女と、イアン・マッケランが演じる老猫の間で、若いころに何かあったな、と匂わせる演出は面白いです。

 

 

 

テイラー・スウィフト、それから「メモリー」を歌うジェニファー・ハドソン。この二人のグラミー賞歌手も、あまり「ネコ」を感じさせない自然さが結果としてよく出ていたと思います。この大物歌手たちの歌唱は、やはり大きな見せ場です。本来、トップ・バレリーナであるフランチェスカ・ヘイワードも美しい歌声を聞かせてくれます。「この人は、ネコでない状態だとどんな感じなのだろう」と思った人も多いと思います。ぜひ、普通の映画にも挑戦してほしい人材です。

 

 

 

そういえば、本作で太った雌猫ジェニエニドッツを演じるレベル・ウィルソンは、今、日本で同時上映中の「ジョジョ・ラビット」でも、ナチスの恐ろしい女性教官という役柄で怪演しています。大活躍ですね。

 

 

 

私個人としましては、本作を見て、あまり「不気味の谷」に引っかかることはありませんでした。舞台版の延長のように見えたので、すぐになんとも思わなくなりました。キャッツとは、そもそもオリジナルの時点で奇妙な作品なのです。そうなると、なんといっても楽曲の素晴らしさに心地よく心を奪われ、「メモリー」まできて「やっぱりこれは名曲だよな」と思わず感嘆し、すでによく知っている展開であるのに、改めて感動した次第です。やはり本作のキモは「メモリー」に尽きます。コンサートでも「早くあのヒット曲、やらないかな」という心境でエンディングからアンコールまで待つ、ということがありますが、まさにあんな感じでしょう。前評判に煩わされることなく、見に行ってよかった、と素直に思いました。ちなみに、一緒に見た妻も、CGになんの抵抗もなく感動したそうです。ぜひ、実際にご覧になって、酷評が正しいかどうかをご確認いただければ、と思います。

 

 

 

 

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