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2017年11月11日 (土)

【映画評 感想】マイティ・ソー バトルロイヤル

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映画「マイティ・ソー
 バトルロイヤル」Thor: Ragnarokを見ました。原題は古代ノルド語の「ラグナロク」つまり北欧神話に描かれる世界の終末、「神々の黄昏(たそがれ)」を意味します。

予告編で効果的に使用されていた、英国が誇るハードロック・バンド「レッド・ツェッペリン」の1970年の名曲「移民の歌」Immigrant Songが、本編でも重要なシーンで流れます。あの曲は、北欧からコロンブスの新大陸発見以前にアメリカ大陸に渡っていたとされるバイキングの人々をテーマにした歌詞でした。今回、神界アスガルドが存亡の危機を迎える中で、なんともうまい選曲ですが、独特の豪快なギター・リフとハイトーンの歌声が、戦闘シーンにまことにバッチリ、はまっておりまして、この映画のために作った新曲のようです。

本作はマイティ・ソーのシリーズとしては3作目、そしてマーベルのシリーズとしては17作目にあたるそうですが、「アイアンマン」以来、もうそんなに作ったのですね。

 監督はタイカ・ワイティティという人で、ニュージーランド出身、マオリ系の方だそうです。本国ではすでに監督・脚本家として多くの作品を作っており、俳優としても活動していて、近年では2011年の「グリーン・ランタン」で助演したほか、ディズニー系では「ドクター・ストレンジ」の補助監督、それから自らのルーツを生かして「モアナと伝説の海」の脚本にもかかわっており、実績を積んでのハリウッド大作抜擢となった模様です。

 いわれてみると、冒険アニメ活劇だった「モアナ」と、全く別の素材を扱っているにもかかわらず、なんとなくテイストが似ている感じがします。シリアスなシーンと、ボケとツッコミのギャグ・シーンが絶妙なタイミングで交互するところ、テンポが早すぎず、遅すぎずで、見ていて非常に分かりやすいところ。特にじっくり描くシーンと大胆に省くシーンが緻密に計算されているところ、それから、巨大な敵キャラとの決戦シーン。

 何よりも、いろいろあったけれど、最後は前向きに、ポジティヴに、という感じが、あの「モアナ」に似ているように感じました。近年、この種のヒーローものもすっかり現実的になって、架空の世界であっても、不条理なテロや暴力が横行し、陰惨な内容になりがちです。今作は、舞台が主に地球を離れていることもあり、物語が現実的になりすぎる弊を免れたようです。宇宙規模の壮大なスケールで、あたかも「スター・ウォーズ」シリーズの中の一作であるかのようにも感じます。

 今回は主に雷神ソー(クリス・ヘムズワース)と、超人ハルク(マーク・ラファロ)が活躍するストーリーです。2年前に、アベンジャーズ・チームとして参加した「エイジ・オブ・ウルトロン」での東欧の小国ソコヴィアにおける激闘の後、アベンジャーズは「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で描かれたように、アイアンマン派とキャプテン派に分かれての内輪もめ状態に陥ったわけです。しかし、ハルクはソコヴィアの戦いの終盤で行方不明となり、ソーは仲間を離れて独自に「インフィニティ・ストーン」探索の旅に出たため、このヒーロー同士の内戦に巻き込まれませんでした。戦闘力でいえばアベンジャーズの中でもトップを争う2人が、内輪もめに関わらなかったというのは、全員にとって幸いなことだったのかもしれません。

 では、この2年間、ソーとハルクは何をしていたのかと言えば…。

 

ソコヴィアの戦いから2年。ソーは独り探索の旅に出ていましたが、そのうち悪夢に悩まされるようになりました。それは、古からソーの母星アスガルドにいつか訪れると予言される破局的な終末「ラグナロク」を予感させるものでした。ソーは炎の国ムスペルヘイムに行き、わざと捕らえられた上で、かつて50万年も前に父王オーディン(アンソニー・ホプキンス)に倒されたはずの炎の巨人スルト(声:クランシー・ブラウン)が復活していることを確認します。スルトが語るには、彼の王冠がアスガルドにある「永遠の炎」に焼かれたとき、スルトは完全に復活して強大となり、アスガルドにラグナロクをもたらす、というのです。

ソーはスルトを倒して王冠を奪い、アスガルドに帰還しますが、アスガルドと異世界をつなぐビフレスト(虹の橋)の番人が、今までずっとここを守っていたヘイムダル(イドリス・エルバ)から、スカージ(カール・アーバン)と名乗る粗暴な見知らぬ男に交代していることに不審を覚えます。さらに、王宮にはイタズラ者の義弟ロキ(トム・ヒドルストン)の巨大な黄金像が建てられ、ロキを讃える芝居まで上演されていました。ソーは、アスガルドを現在、統治しているオーディンが偽物であり、その正体はロキであることを見抜きます。

怒ったソーはロキを連れて、ロキが父王を追放したというミッドガルド(つまり地球)のニューヨークにやってきます。しかし、ロキがオーディンを預けた老人ホームはすでに閉鎖されて解体されており、さらにその時、ロキが何者かの魔術により姿を消します。

ソーは、ロキが取り落とした名刺に書かれている市内の住所を訪ねます。そこにいたのは地球を守る大魔術師ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)で、ロキも危険人物として彼が捕獲したのでした。ストレンジは、アスガルド人が地球に訪れることが、いつも地球世界の混乱の元となっていることを憂慮していましたが、ソーがロキとオーディンを連れてアスガルドに立ち去ると約束したので、オーディンを保護しているノルウェーに、2人を転送します。

ノルウェーで再会したオーディンは、2人にラグナロクが近いこと、それは避けられない運命であることを告げると共に、自らの死が近いことも教えます。そして、オーディンが死ねば、その力で抑え込んでいたソーの姉、オーディンの最初の子であり、最強の死の女神であるヘラ(ケイト・ブランシェット)が復活すること、彼女がアスガルドに帰還する時、ラグナロクが始まるだろうことを語ると、光となって姿を消し、この世を去っていきました。

まもなくヘラが姿を現し、ソーとロキに襲いかかりますが、その強さは噂以上のもの。圧倒的な力の差にねじ伏せられ、ソーの必殺の鉄槌ムジョルニアも、赤子の手をひねるようにヘラに破壊されてしまいます。2人はビフレストに逃れようとしますが、ヘラも彼らの後を追い、途中でソーとロキを別の宇宙に放り出してしまいます。

アスガルドに現れたヘラは、その場にいたソーの忠臣ヴォルスタッグ(レイ・スティーヴンソン)とファンドラル(ザッカリー・レヴィ)を殺害し、最後まで決死の抵抗をしたホーガン(浅野忠信)と王宮の近衛兵も皆殺しにします。死体の山を見てスカージはヘラに恭順し、ヘラは彼に「処刑人」の名を与えて臣従を許します。ヘラはアスガルド王宮を支配すると、かつてオーディンに阻止された全宇宙征服に乗り出そうとしますが、外征のためにビフレストを起動するには、ヘイムダルが持ち出した大剣がなければなりません。ヘラはヘイムダルと、彼の下に集まる反抗勢力を捜し出すようスカージに命じます。

そのころ、時空を跳び越えたソーは、未知の惑星サカールに墜落します。そこはあらゆる次元の宇宙から廃棄物が集まる辺境のごみ溜め場です。ここでソーは、かつてアスガルド王家の精鋭騎士だったものの、今では落ちぶれて飲んだくれの賞金稼ぎになっている女戦士ヴァルキリー(テッサ・トンプソン)に捕らえられ、サカールを支配する独裁者グランドマスター(ジェフ・ゴールドブラム)に売り飛ばされてしまいます。グランドマスターは闘技場で戦う強い奴隷戦士を求めており、ソーもその一人とされてしまいました。

すでに少し前からこの星に来ていたロキは、グランドマスターに上手に取り入り、客分扱いの好待遇を得ていましたが、奴隷になったソーを全く助けようとしません。

闘技場の試合で、当地で最強のチャンピオン戦士と戦って勝利すれば、解放されると知ったソー。しかし、ソーの対戦相手として闘技場に現れたのは、2年前に姿を消してから行方不明となっていたハルクその人でした…。

 

 ということで、一癖もふた癖もありそうなキャラクターが次々に登場し、超豪華キャストが総出演、という感じです。女王様をやったらこの人、ケイト・ブランシェットの怪演ぶりは、なるほど、こんな人が出てきては誰もかなわない、と思わせるだけの存在感でして、ひょっとして、「ロード・オブ・ザ・リング」で彼女が演じたエルフの女王ガラドリエルが、フロドから力の指輪を受け取っていたら、きっとこうなっただろう、と思わせます。黒髪の彼女は珍しいですが、これもよく似合っていますね。

奇矯なキャラクターをやらせたらこの人しかいない、というのがジェフ・ゴールドブラム。こちらも、こんなおかしな役柄は彼しかこなせないだろうな、と思われます。そして、久々にこの世界に戻ってきたトム・ヒドルストンも大活躍です。このロキという役柄も、そもそも北欧神話でもイタズラと裏切りの神であり、描きようによっては全く嫌な奴になりかねず、何をやってもどこか憎めない感じのトムがやらなかったら、こんなに人気は出なかっただろうと思われます。

 一方、このマーベル・シリーズでも徐々に「リストラ」が進行しておりまして、これまでソーの恋人だったジェーン(前作までナタリー・ポートマン)は破局を迎えて別々の道を行くことになったそうです。アンソニー・ホプキンスもオーディンの死で本シリーズから卒業し、またソーの戦友3人も今作であっさりと命を落として退場。数少ない日本からの出演者、浅野忠信さんの登場もこれまで、ということのようです。

 今回のソーは、何よりも、今まで無敵の神であり、王位継承者であった彼がすべてを失い、頼りにしていた武器も、恋人も、仲間たちも、父さえも喪失して、一方でこれまで自分が知らなかった姉が現れ、弟には裏切られ、家族の絆も見失い、ゼロからの「自分探し」をする旅の物語でもあります。ヘラは彼に「弟よ、あなたは何の神なんだっけ? 教えて頂戴」と嘲ります。オーディンは「お前はハンマーの神なのか? お前の真の力はそんなものではない」と諭します。厳しい戦いの中で、一回りも二回りも成長していく彼の姿は本作で最大の見ものですが、それを見守るワイティティ監督の視線には、常に温かいものを感じます。

 これはマーベル全シリーズの中でも映画として、非常に上質の面白い一作になっていると思います。今後の展開にも期待されますが、私はワイティティ監督の今後の飛躍にも大いに期待したいところです。

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2017年11月 4日 (土)

【映画評 感想】ブレードランナー2049

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映画「ブレードランナー
2049Blade Runner 2049を見ました。「ラ・ラ・ランド」のライアン・ゴズリングが主演、「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がメガホンを執り、制作総指揮に1982年の「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコット、という布陣。さらに、82年版で主演したハリソン・フォードがデッカード役で帰ってくるという豪華さで、話題性は充分。

しかし制作費150億円超えという巨費を投じた費用対効果から言うと、今のところ二百数十億円の興行収入で、売り上げ的には、必ずしも好成績とはいえない状況のようです。

批評家筋は絶賛し、実際に見た一般の観客の感想も、アメリカでも日本でも上々です。にもかかわらず、やはり3時間近い長尺と、難解とかマニアックとかいう先入観が仇になったのか、まあ少なくとも「大衆受けする映画」としての商業的成功はしていない模様です。しかし考えてみると、82年の「ブレードランナー」も、「エイリアン」のリドリー・スコットと、「スター・ウォーズ」「インディ・ジョーンズ」で人気絶頂だったハリソン・フォードの名前をもってしても、公開時点では決して売れ筋のヒット作品ではなかったことを思い出すべきでしょう。

本作は今時、珍しい硬派なSF作品であり、そういう意味では、時代に逆行したかのような硬派な作風を連発しているヴィルヌーヴ監督と、本作の底流に流れるDNAを作ったリドリー・スコットという2人のアーティストが作り上げた世界観が、お子様向けのポップコーン映画になりようがないわけであります。

そして、そのまた原形を作ったのが20世紀アメリカSF文学界を代表するフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?Do Androids Dream of Electric Sheep ? であることを思うとき、その感覚は一層、深まるものです。生前のディックは文壇で高い評価を受け続けていながら、どうしてもカルト的な作風と見なされて、ベストセラーには全く恵まれない作家でした。しかし、彼の亡くなる直前にこの小説が「ブレードランナー」というタイトルで映画化決定し、さらに彼の死後、「トータル・リコール」や「マイノリティー・リポート」など10を超える映画が彼の原作を基に制作されました。時代の先を行きすぎていた天才、ということなのでしょうか。

ディックの原作小説には、すでに「人間そっくりのアンドロイド」である「ネクサス6型」と、それを「解任」(つまり殺害)する処刑人というアイデアがありました。いかにも人間味のある、見た目にも人間にしか思えないアンドロイド。判別検査(フォークト―カンプフ検査)を実施し、彼らを殺し回る、非情な人間。その対比から、「一体、人間というのは何なのか?」という疑問が提示されています。また、自然の生態系は全て滅び、植民惑星で奴隷として働くアンドロイドたちはもちろん、動植物もすべてが人造の産物に置き換えられ、羊のような生き物も「電気羊」となっているような世界を描き出しました。この殺伐とした驚くべき世界観をディックが描いたのが、今から半世紀も前の1968年(昭和43年)である、というのは驚くべき事です。

1982年のリドリー・スコット監督の作品では、タイレル社が量産したレプリカント(人造人間)「ネクサス6型」が登場しました。それらはあまりにも人間そっくりであり、瞬く間に学習して人間らしい感情や自我を身に付けるために、4年しか生きられない寿命制限が設けられていました。植民惑星での奴隷労働から脱走してくるレプリカントを殺害する任務を遂行していた捜査官=ブレードランナーのデッカード(フォード)は、タイレル社が製造した新型レプリカントのレイチェル(ショーン・ヤング)と禁断の恋に落ち、一緒に逃亡するところでエンディングを迎えたのでした。

 その劇中の設定は2019年でした。まもなく現実の日付が追いつきそうな2017年に、その続編が登場したわけです。現実の世界では人造人間は実現していませんが、AI(人工知能)が支配する荒廃したディストピアの未来図、という程度なら、もはやカルトSFの特異な設定とは見なされず、主流派の科学者たちもおおっぴらに語るようになっています。ようやく時代がフィリップ・K・ディックの想像力に追い付いてきた現代。新作が描くのは、あれから30年後、2049年のロサンゼルスです…。

 

 2049年のロサンゼルス。地球の環境は一層、荒廃し、地球温暖化で海面が上昇。すでに富裕層は植民惑星に移住してしまいました。残っているのは、スラムに住まい合成食品で生きながらえる貧民ばかりです。

 2020年に長寿命の「ネクサス8型」レプリカントが起こした反乱により、レプリカント禁止法が成立し、その製造そのものが違法とされ、タイレル社は倒産してしまいました。逃亡したネクサス8型は2022年に大爆発を引き起こして電磁パルスをまき散らし、「大停電」により自分たちにまつわる電子情報をすべて消し去りました。こうして、多くのネクサス8型が身を潜める中、レプリカントは公式には人々の目の前から姿を消しました。

 しかしその後、昆虫を原料としたプロテインで人類の食糧危機を解決した天才科学者ネアンダー・ウォレス(ジャレッド・レト)は、倒産したタイレル社の技術を引き継ぎ、より安全で人類に絶対服従するように作られた新型レプリカント「ネクサス9型」を発表。人類の救世主である、という自らの権威を利用してレプリカント禁止法を廃止させました。合法化されたネクサス9型を大量生産したウォレスは、これを労働に使役して、植民惑星を全宇宙に拡大するという野望を抱いています。

 ロサンゼルス警察LAPDに所属するブレードランナーのK(ゴズリング)は、自らもネクサス9型のレプリカント。人類社会に潜伏している違法な旧型であるネクサス8型を「解任する」任務に就いています。警察の同僚は彼を「人もどき」と呼んで差別し、寂しいKの日常を慰めるのはウォレス社が製造したホログラム(立体映像)タイプのAI、ジョイ(アナ・デ・アルマス)だけです。

 ある日、ウォレス社と契約して昆虫を育てる農民として働いていた旧型レプリカント、サッパー・モートン(デイブ・バウティスタ)を処刑したK。モートンの庭の木の根元に箱が埋められていることに気付いたKは、上司のジョシ警部補(ロビン・ライト)に通報。その箱の中からは、一体の女性の骨が見つかります。

 驚くべき事に、その女性は妊娠して出産した直後に亡くなった形跡があり、しかもレプリカントであったことが分かります。「レプリカントが妊娠して、出産する」という衝撃の事態にジョシは取り乱します。レプリカントが産んだ子供は、すでに「生産された製造物」とは呼べません。こうなると、人類とレプリカントの定義が一層、曖昧になることは間違いありません。ジョシはKに、生まれた子供を見つけ出して、処分、つまり暗殺することを命じます。しかしKはためらいを覚えます。「子供を殺したことはありません。レプリカントから生まれた子供は、製造物ではありません。それは魂を持っているのでは?」とKは言いますが、ジョシは社会の安定を優先して、すべてを秘密裏に葬ることを決めます。

 Kは、30年前に旧型のレプリカントを製造していたタイレル社のデータを求めて、現在のレプリカント製造企業ウォレス社を訪ねます。そこに残っていた情報は、30年前に旧型レプリカント、つまりあの遺骨となっていた女性にフォークト―カンプフ検査を行うLAPDのブレードランナー、デッカードの声でした。ウォレス社長から全幅の信頼を得ているレプリカントの秘書ラヴ(シルヴィア・フークス)は、Kがもたらした情報に内心、驚愕します。ウォレスはタイレル社がかつて実現していた幻の技術を欲していました。同社の倒産と2022年の大停電により失われた、生殖能力のあるレプリカントの製造法です。レプリカントを大量生産するためには、自然に繁殖させるのが最も効率がよい、というのが彼の結論なのです。

手がかりを求めてモートンが住んでいた家に戻ったKは、木の根に彫り込まれた日付を見つけ、衝撃を受けます。そこには「6.10.22」とありました。つまり2022610日です。おそらくここに埋葬されていたレプリカントの女性が亡くなり、子供が生まれた日付です。そして、それはK自身の誕生日でもあったのです。

そればかりではなく、Kには「子供時代の記憶」がありました。もちろん、初めから完成された大人として生産されるレプリカントは、実際には子供時代がありません。しかし、疑似記憶を与えることで、心の安定を保つ…それがこの時代の長命なネクサス9型には一般的にとられている措置でした。Kの記憶に拠れば、たくさんの子供たちに追いかけられたKは、この時代には希少品とされる本物の木で出来た小さなオモチャの木馬を、子供たちに奪われないように、ある場所に隠したことがあるのです。その木馬の足の裏にも6.10.22の数字が彫り込まれていました。

Kは、ウォレス社のレプリカント向けに疑似記憶を製作しているステリン研究所の天才技術者アナ・ステリン博士(カーラ・ジュリ)と会い、自分の「記憶」を鑑定してもらいます。その結果、Kの記憶は作られた偽物ではなく、間違いなく人間の実際の記憶である、ということが判明します。

警察の古い記録を調べると、この日に生まれた双子の子供が、ロサンゼルス郊外の荒廃地にある孤児院に預けられた、という情報が出てきました。双子のうち、女の子は8歳で亡くなり、男の子は行方不明、というのです。

疑惑にかられたKはジョシ警部補に、「子供を見つけて処分した」と虚偽の報告をしますが、精神が不安定になり、署内の検査で落第して、任務から外されてしまいます。一定の時間内に任務に戻れなければ、K自身が解任されるでしょう。

Kは問題の孤児院に行き、「記憶」にあるのとそっくりの場所を見つけます。そしてそこから取り出されたのは、まさにあの「木馬」でした! Kは激しく動揺します。記憶は現実だった。それはつまり、レプリカントの女性から生まれた行方不明の男の子とは、自分なのではないか?

Kは手がかりとなる木馬を密売人のバジャー(バーカッド・アブディ)に見てもらいますが、高レベルの放射能が検知されます。このような放射能がばらまかれた土地と言えば、2022年の大爆発の直下にあった都市、かつてのラスベガスのほかにありえません。Kは廃墟と化したラスベガスに残るホテルの建物で、一人の老人に出会います。それは、30年前にレイチェルと共に逃亡したブレードランナー、デッカードでした。一方、ずっとKの動きを監視していたウォレス社のラヴは行動に出ます…。

 

 というような展開ですが、今時のせっかちでハイテンポな映画に慣れていると、この映画のぜいたく極まりない演出には面食らうかもしれません。本当に70年代とか80年代以前の名作映画のような作りなのです。たっぷりと時間を使い、詩的な長いセリフを、余韻を残しながら話す。お金を掛けて、可能な限りCG処理に頼らずに本物のセットを組んで撮影する。それにより醸し出される情報量の多い映像美と音響の素晴らしさは、いってみれば最高級ブランド品を思わせます。そのためにテンポは遅く、見る者はそこで生まれる間において、じっと前のシーンの意味合いと、次のシーンへの展開を考え込むことになります。ヴィルヌーヴ監督の前作「メッセージ」もそのような映画でしたが、今作ではさらなる極致を目指しているのが分かります。

 空飛ぶ車や光線銃、そして人造人間、自立的に考えて恋愛感情まで抱くAI。その一方で世界はますます荒廃し衰退し、人類の存立が揺らぐ中で、レプリカントたちはどんどん存在感を増していく世界です。SFを超えたスピリチュアル的な観点から見ても、「分娩で生まれたレプリカントは、もはや魂を持った生命なのではないか」というテーマは、重いものがあります。逆に言えば、単に人間個人の意識を、単なる記憶のデータベースのように見なして、これを電子データに移植し、永遠にコンピューターネットの中で生きる、という研究も進みますが、その単なる記憶データの集積ははたして人間の意識と呼べるのでしょうか? 本作品で重要な役回りを持つ肉体を持たない立体映像のAI、ジョイは明らかに個性と自立的な判断を持ち、主人公に対して愛情を抱いていきますが、ではこの人工知能が持っている意識は? これは確かに人間ではないでしょうが、彼女には魂はないのだろうか? 作り物と本物、という区別をつける定義は、どうなっているのか。

 デッカード自身がレプリカントなのか、そうでないのか、という問題も、今作に持ち越されています。これはディックの原作自体で、処刑人自身が人造人間なのではないか、と疑われる描写があったところから1982年を経て、ずっと尾を引いている疑問です。

 そのような思いに捕らわれると、抜け出せなくなる魅力が、このシリーズにはあります。そういう硬派なSFならではの見応えが、まことに貴重なものだといえます。オリジナルを手がけたリドリー・スコットは最近の作品まで繰り返し、この人造人間というテーマを取り上げています。彼自身が、ディックが投げかけたこの種の問いかけにとらわれているのでしょう。そして、それは私たち観客にも及んでいるのですね。

 哀愁を帯びたゴズリングが、本作の主人公にぴったりはまっています。また当初案ではデヴィッド・ボウイが演じる予定だったというウォレス役を、ジャレッド・レトが熱演しています。注目なのがレイチェルの復活シーンです。これはよく似た女優の顔に、1982年のショーン・ヤングの顔をデジタル処理で貼り付けたようです。そして、75歳になるハリソン・フォードは文句なしの名演ですが、映画が2時間を過ぎるあたりまで出てこないのは驚きでした(とはいえ、そこから最後までまだたっぷり時間がありましたが)。

 とにかく、この難しい仕事をやってのけたヴィルヌーヴ監督に敬意を表したいです。次作というものがあり得るのかどうか、分かりませんが、もし「ブレードランナー2079」という企画があるとしたら、どうなるでしょうか。見てみたい気がします。

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