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2017年9月22日 (金)

【映画評 感想】エイリアン : コヴェナント

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 映画「エイリアン:コヴェナント」Alien: Covenantを見ました。「エイリアン」シリーズの生みの親、リドリー・スコット監督によるシリーズの集大成的な作品です。
 コヴェナントとは「契約」の意味です。聖書で説かれる、神とユダヤの民との「契約」がその下敷きにあります。神との契約によって預言者モーゼに十戒が授けられ、その石板を入れた「契約の箱」(Ark of the Covenant=「インディ・ジョーンズ」に出てきた、あの失われた「アーク」のこと)を携えた人々は、神との「約束の地」を目指し遠い旅に出たわけです。これにちなみ本作では、人類にとっての約束の地を目指す植民宇宙船の名になっています。スコット監督はモーゼの出エジプトを描く史劇「エクソダス:神と王」を2014年に製作していますが、これも偶然ではなく、同監督にとって重要なモチーフなのでしょう。
 シリーズの第一作「エイリアン」が公開されたのは1979年。私が中学1年生のときでした。今よりもテレビで映画のコマーシャルがよく流れる時代でしたので、「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」というキャッチコピーと共に映し出される映像の気持ち悪さに辟易した記憶があります。その後、しばらくたって、この作品を初めてテレビで見たときも、悪夢に出そうな、トラウマになりそうな印象を持ちました。
 何よりも気味が悪かったのは、巨匠ギーガーがデザインした化け物ですが、それも意図的に、正体が分からないように映されているのですね。それがとにかく得体のしれない恐怖感を醸し出していました。
 この作品は、ちょうど「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」でSFが映画ジャンルとして確立した直後に登場し、ホラー的な展開の「SFスリラー」という新分野を切り開いたと言えます。この一作で、まだ無名だったスコット監督と、映画史に残るタフなヒロイン、リプリーを演じたシガニー・ウィーバーが有名になり、以後の多くの作品に影響を及ぼしました。たとえば、密室的環境からの逃避行という図式は、今、上映中のクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」にまで影響を与えているほどです。
 しかし、あれから40年余りでエイリアンはあまりに有名になりすぎました。一作目から20年近く続いたシリーズも97年の「エイリアン4」でついに完結したとされ、それからでもさらに20年がたっています。2012年に前作「プロメテウス」が公開された際には、エイリアン・シリーズに登場する悪徳企業ウェイランド・ユタニ社の前身会社、ウェイランド社が出てくることなどから、どう考えても同シリーズの前日譚のように見えるものの、監督も制作サイドも明確にシリーズの一部であるとは公言しませんでしたし、題名にも「エイリアン」の言葉は入っていませんでした。
 しかし、「プロメテウス」の続編である本作は、タイトルからしてエイリアン・シリーズの正統な一作であることを公式に明示しており、これにより、逆説的に「プロメテウス」も正統な前日譚であったことがはっきりした、という流れになっています。
 そういう経緯があり、前作は明らかにエイリアンだとしか思えないものの、神話的なタイトル通りにどこかシリーズのノリとは異なる深遠さというか、哲学的な香りが強い作風でした。しかし、今回の作品は明らかにそれが、バイオレンス・アクション映画であると共に、SFスリラーの開祖でもある本シリーズらしい展開に舵を切っています。要するに、より娯楽作品らしく、第一作に近い作風に回帰しています。これはもちろん意図してそのように製作されたものでしょう。
 というのも、本作の位置づけは、前作「プロメテウス」の時代設定(2089~94年)の10年後、そして第一作「エイリアン」の時代設定である2124年からは20年前にあたる2104年、ということになっています。つまり、この映画から20年後に、あのノストロモ号の悲劇的な航海が起きるわけです。なぜ、エイリアンという化け物が生まれたのか、というのが「プロメテウス」と本作が担う最も重要なテーマになるわけですが、その副産物として、そもそも地球人類と言うものも、なぜ生まれたのか、という話にまで及んだわけです。
 「プロメテウス」では、考古学者エリザベス・ショウ博士(ノオミ・ラパス)が古代の遺跡の発掘成果を基に、地球人類を導いてきた神=異星人「エンジニア」の星を目指す旅を企図し、それを巨大企業ウェイランド社の総帥、ピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)が後押しして、宇宙船プロメテウス号が旅立つ話が描かれました。結局、その星でエンジニアたちは危険な生態兵器「エイリアン」のプロトタイプを開発しており、エリザベスと、アンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)を残して探検隊は全滅。エンジニアの宇宙船を奪った2人が、彼らの母星に向けて出発するシーンで幕切れとなりました。
 よって、続編である本作では、異星人の母星に着いた2人のその後が描かれるのだろう、と誰しもが予想したのですが、それがちょっと違っていたのです。

 プロメテウス号が出発する以前から映画は始まります。ピーター・ウェイランド(ピアース)は自分が製作した人造人間のプロトタイプ(ファスベンダー)を起動させます。それは、自分自身でダビデの彫刻にちなんでデヴィッドと名乗ります。ウェイランドが「私がお前を作り出したのだ」と言うと、デヴィッドは「では、あなた方を作り出したのは誰ですか」と問います。その質問の中に、危険な兆候を感じ取ったウェイランドは不機嫌になり、デヴィッドに絶対的な服従を求めて威圧的な態度をとるようになります…。
 それからかなり後、プロメテウス号が行方不明になってから10年後の2104年。ウェイランド社の新型植民船コヴェナント号が、惑星オリガエ6を目指して宇宙を進んでいました。ブランソン船長(ジェームズ・フランコ)率いるこの船は、15人のクルーと、入植者2000人、人間の胚胎1140個を乗せた人類初の大規模植民を目指しています。クルーと入植者は冬眠状態で7年以上の長い航海を過ごし、その間は疲れを知らぬ人工知能「マザー」と、新型のアンドロイド、ウォルター(ファスベンダーの2役)が船を管理しています。しかし、予期せぬトラブルで船が損傷し、クルーが冬眠から強制的に蘇生される中、不幸な事故でブランソン船長は亡くなってしまいます。船長の妻で、惑星改造の専門家ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)は半狂乱となりますが、船長に昇格した副長オラム(ビリー・クラダップ)は部下に冷徹な態度をとり、乗組員の間に不協和音が生じます。
 そんな中、これまで探査されたことのない星域から謎の信号が届きます。それはどうも誰かの歌声のようで、しかも、よく知られたジョン・デンバーの名曲「カントリー・ロードTake Me Home, Country Roads(故郷に帰りたい)」の一節のように聞こえるのです。調べると、その発信地の星は、海と陸地のある地球型惑星で、オリガエ6より植民に適しており、しかも距離的にずっと近いことが分かります。船長オラムは急きょ、この星に進路を変えることを決断しますが、ダニエルズは突然の方針変更を無謀な冒険として反対します。しかし決定は覆らず、コヴェナント号はその惑星に向かいます。
 地上に降り立った一行は、その星に豊かな植物が生い茂っている反面、鳥も虫もその他の動物も全くいないことに気付きます。さらに不思議なことに、地球の麦が繁殖しており、一体、誰がこれを植えたのか、疑問は尽きません。やがて彼らは、異星人の宇宙船の廃墟らしきものを見つけ、10年前に行方不明となったプロメテウス号のエリザベス・ショウ博士(ラパス)が身に付けていたものを発見。さらに、ホログラム映像でエリザベスらしき人物が「カントリー・ロード」を歌う情景を見て、これが発信源であることを確認します。
 しかし、この星の恐ろしさはここから徐々に明らかになっていきます。黒い粉を吸い込んだ隊員が不調を訴え、その身体を破ってエイリアンが出現。混乱の中、死傷者が続出して地上着陸船も破壊されてしまいます。妻のカリン(カルメン・イジョゴ)が死んだことで落胆し、指揮官としての自信を失うオラムをダニエルズは励ましますが、エイリアンに包囲されて探査隊は全滅の危機に瀕します。
 そこで、思いがけず一発の信号弾が発射されて、驚いたエイリアンは退散していきます。一行を救ったのは、プロメテウス号のクルーだったアンドロイド、デヴィッドでした…。

 ということで、エイリアンの星に足を踏み入れて恐怖に陥る、というパターンはまさに第一作「エイリアン」の再現で、この後、話を引っ張るのが、女性主人公ダニエルズである点も、非常によく似ています。
 大変、よくできた映画で、シリーズ集大成として恥じない出来栄えである、ということを先に記しておきつつ、率直な感想も述べてみます。
 どうも、あの79年の一作目の衝撃度とどうしても比較して見てしまうのですが、私たちはエイリアンというあの怪物を、今やよく知り過ぎてしまっているのですね。一作目で味わった、得体の知れなさが、もうここにはないのです。これは仕方がありません。人体に寄生して腹を食い破る誕生の仕方、ヨダレを垂らす特徴的な二重構造の口、細長い頭、悪魔のような尻尾、強い酸性の体液…、何しろ40年も愛されてきたキャラクターですので、今や、ゴジラとかガメラのような懐かしのモンスターなのです。どうしても「ああ、懐かしいな」と思ってしまう。それで、どうしても一作目のときの衝撃は蘇ってこない。ちょっとそういうもどかしい感想は否めないものがありました。本作を初めてのエイリアン映画として見る若い世代の方なら、全く違った感想になるのでしょうが。
 一作目から一貫して描かれる人造人間への親愛と不信感というテーマ。人間そっくりだが人間でない、という存在は、「ブレードランナー」なども制作したスコット監督がこだわりを持つテーマなのですが、一作目のアッシュ(イアン・ホルム)は、非常に人間らしく振る舞い、途中までロボットであることが全く分かりません。それがまた最後に頭部だけになって笑う不気味さを増幅させました。しかし本作に出てくる2体(デヴィッドとウォルター)は、初めからアンドロイドであることが分かっている。テーマとしては深化しているのですが、意外性はそこにはないわけです。このへんも一作目との大きな相違点ですね。
 なにかそういった要素もあって、残酷シーンは散々見せられながら、意外にも淡々とした、落ち着いた一作のように感じられたのは、私の世代的なものなのでしょうか。今時は残酷な映画も、ものすごい映像の刺激的な映画も次から次に作られていることもあり、そういう点では案外に、本シリーズの売り物だったショックがありませんでした。また、「エイリアン」第一作に続く前日譚、と言いながら、エンドシーンからそのまま、20年後のノストロモ号に直接つながるような話でもなく、これはさらに続編が作られるのでしょうか。もしこの作品で「完結」というと、ちょっと物足りない感じも受けます。
 「ファンタスティック・ビースト」でヒロインを演じたウォーターストンの、芯は強いのだけれど、どこか哀愁漂うヒロイン像は、リプリーのような豪快なヒロインとは異なる新魅な力を感じます。それから、同じく「ファンタスティック…」でアメリカ魔法議会の議長を演じていたカルメン・イジョゴが出ていたのも興味深いです。なんといっても本作の中心人物はアンドロイド役のファスベンダーで、難しい2役の撮影を見事にこなしています。
 早い段階で退場してしまうジェームズ・フランコはカメオ出演扱いですが、意外に出番は多く、一方、前作のヒロイン、ノオミ・ラパス演じるエリザベスは、展開上は重要な人物ですが、シーンとしては、ほとんど出番なし。私は前作でのラパスの熱演ぶりに、彼女が「新シリーズのリプリー」なのか、と注目していたので、この点はちょっと残念です。
 近年も意欲的に新作を発表しているスコット監督。もう一本、本作とノストロモ号をつなぐ作品でシリーズを完結してくれないだろうか、と私は密かに期待しております。

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