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2017年4月29日 (土)

【映画評 批評】美女と野獣

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 映画「美女と野獣
Beauty and the Beast」を見ました。いうまでもなく1991年の同名の大ヒット・アニメ映画の実写版です。使用している楽曲も、基本的な筋立てや登場キャラクターも91年版のまま。では、どうして今、実写化したのか、と思うところですが、見てみるとなるほど、と思います。つまり、91年版を制作した人々が本当に見たかった映像は、こういうものだったに違いない、しかし当時の技術では、アニメにするしかなかったのだな、という事実です。要するに、人々の想像力に映像技術が追いついた、ということです。

 たとえば、今回の作品では、主人公である野獣が、非常にこまかい感情表現を顔の表情で示します。表情で喜怒哀楽を微細に表す。しかし、一昔前の着ぐるみでは絶対にできなかったことですね。下手なものをやると、そこで興ざめになってしまう。1946年のジャン・コクトー版「美女と野獣La Belle et la Bête」の野獣は、特殊メイクでなかなか健闘していましたが、あれも白黒画面だから通用した感が強いです。

原作アニメでは、野獣がベルの一挙一動に、怒ったり、すねたり、いじけたり、喜んだり、最後には惚れ込んで夢中になったり・・・そのへんの心理の変化がアニメ的手法で表情豊かに描かれ、それが重要なわけでした。今回は、ファンタジックな世界観と、実写のリアリティーを両立させる、それにより、これが文字通り、絵空事ではないリアルである、と見ている人をこの世界に連れ込んでしまう迫真力。30年近い年月が、そんなことを可能にする技術革新を実現したわけです。野獣役のダン・スティーブンスは、まず全身の動きのモーション・キャプチャーを撮り、さらに表情だけに絞った演技をもう一度、撮影したそうです。そういう努力を経て、実現したこの映像のすばらしさ。

 ゆえに、今作はあくまでも91年版を実写化した、あのイメージを大切に再現した、というスタンスを貫いています。昔のまま、であることに意味があるわけです。下手な小細工は求められていない。当初案では、ミュージカル要素を廃して、ストレートな芝居にするという計画もあったようです。つまり、より現実的な実写で、アニメとは全く違うものにした方がよいのではないか、という考え方もあった、ということですが、ビル・コンドン監督はその意見を押しとどめ、「あの91年版の物語と楽曲を、最新技術で実写化する」という方針にしたそうです。

 それゆえ、「これが、本当にやりたかったことなのだ」という意味合いで受け止めますと、この映画の凄みが理解出来る気がします。「今さらなんで」とか「二番煎じ」という批判が当然、予想される中で、こういう映画を作ってしまったわけです。すでに公開から1か月で、世界興行収入は1000億円を超える大ヒットだそうですが、今の時代に、この企画を成立させ、実行するディズニーの大胆さはやはり恐るべし、と思う次第です。また多くの観客も、コンドン監督の示した「91年版の再現」という方針を喜んで受け入れた、と見てよいのだろうと思います。

 

 昔、フランスのある領地を治める城の王子(ダン・スティーブンス)が、盛大な舞踏会を開きました。そこに現れた老婆(ハティ・モラハン)が、一夜の宿を求めますが、王子はそのみすぼらしい姿をあざ笑い、追い返そうとします。しかし、その老婆は実は強大な力を持つ魔女で、王子と城に呪いを掛けてしまいます。すなわち、王子は恐ろしい野獣に、城の使用人たちは時計や燭台といった道具の姿に。さらに、魔法の薔薇の最後の花びらが散る前に、王子が「真実の愛」を理解しなければ、王子は永遠に野獣に、そして使用人たちも生命を失い、そのままただの古道具に化してしまうというのです。

 そのまま年月が流れ、魔女の魔法により、王子と城の存在も世間から忘れ去られてしまいました。

 それから後、この城の近傍にある小さな村で。パリから移ってきた芸術家で職人のモーリス(ケヴィン・クライン)の一人娘ベル(エマ・ワトソン)は、村一番の美女として有名ながら、読書と発明を愛する、当時としてはかなり飛んでいる女性で、村の中では浮いた存在でした。しかし、そんな彼女に一目惚れしてしまったのが、戦争帰りの野卑な元軍人ガストン(ルーク・エヴァンス)。自慢の体力とハンサムな顔で、村の娘たちは皆、ガストンに夢中ですが、何よりも知性を重んじるベルが、暴力的で自分勝手な彼を気に入るわけもありません。ずっとベルへの片思いが続く失意のガストンを献身的になぐさめるのが、戦地からの旧友であるル・フウ(ジョシュ・ギャッド)。しかしル・フウは、実は同性愛の傾向があり、ガストンに友情以上の感情を抱いているようです。

 ある日、村の外に出かけた父モーリスは、森で道に迷い、見たこともない古城にたどり着きます。一夜の宿を借りようとしますが、そこには魔女の呪いで道具にされた使用人たち、時計になった執事コグスワース(イアン・マッケラン)、燭台になった給仕頭ルミエール(ユアン・マクレガー)、羽根バタキになった女中頭プリュメット(ググ・バサ=ロー)、ハープシコードになったお抱え音楽家マエストロ・カデンツァ(スタンリー・トゥッチ)、衣装ダンスとなった声楽家ガルドローブ夫人(オードラ・マクドナルド)、そしてポットになったポット夫人(エマ・トンプソン)、その息子のチップ(ネイサン・マック)といった者たちがおり、気味悪くなったモーリスは逃げ出します。帰りがけに、ベルから頼まれていたお土産のバラを手折ったとき、恐ろしい野獣が襲ってきて、モーリスは捕らわれてしまいます。

 愛馬フィリップが単独で逃げ帰ってきたことで、父に異変があったことを察したベルは、城に駆けつけます。そして父モーリスの代わりに、自ら進んで野獣の人質になります。

 こうして野獣の捕らわれ人となったベルですが、使用人たちの心を込めたもてなしに心を和らげます。その後、ベルがオオカミの群れに襲われた際に、野獣が助けてくれたことをきっかけとして、野獣が実は心優しく、教養も高い存在であることを知り、徐々に心引かれていきます。ベルと野獣がダンスを踊り、ついに恋の果実は熟したか、というそのとき、ベルは父モーリスがガストンの差し金で、森に置き去りにされて死にかけた挙句、精神病院に監禁されようとしていることを知ります。

 野獣は、ベルを愛するがゆえに、ベルが城を出て行くことを許します。使用人たちは落胆しますが、野獣は「永遠に君を待つ」と歌います。

 一方、ガストンはおのれがヒーローになるべく、城の野獣を討伐する、と村人たちに宣言します。野獣狩りの一行を率いて先頭に立つガストンを見て、ル・フウは「確かに野獣は存在するに違いない。しかし、ここにもっと危険な野獣がいる」と呟き、ひそかにガストンを見限ることにします。

 野獣に迫る危機。ベルは父を救い出せるのか、そしてガストンたちが野獣の城に迫る中、一体、どう対処するのか。クライマックスへと話は向かいます・・・。

 

 ということで、基本的な大筋は91年版のままですが、違いもあります。野獣と、ベルの生い立ちについて明確に詳述されている点が、大きな相違点でしょう。なぜこういうことになっているのか、どうして今のような生活をしているのか、という意味づけがアニメよりしっかりされています。ベルも単に文学好きな夢見る少女、というよりも、アニメ版以上に、今で言う「リケジョ」的な気質で、18世紀なら確かに地域社会で浮いていただろう、いわゆるいじめにも遭っていただろう、という面が明確に描かれます。

 野獣がアニメ版と違い、王子としての高い教養を失っておらず、そこから知的なベルと意気投合する、という描かれ方も、より説得力があるでしょう。

 この作品でほぼ唯一の悪役ガストンも、単なる無教養でガサツ、無益な殺生を好む狩人で、愚かな乱暴者であった91年版と異なり、戦争帰りで軍服を着ており、今で言うPTSDを患って、狂暴化しているような解釈になっています。そして、甚だ単細胞だったアニメのガストンとは違い、非常に狡猾で大衆煽動がうまく、悪巧みにたけた人物になっている点も、かなり印象が相違します。

 しかし最も相違する点は、アニメでは全くガストンの腰巾着に過ぎず、あまり意味のないチョイ役だったル・フウです。彼が同性愛者であり、最後はガストンの狂気に疑問を抱く、という描かれ方は新鮮です。同性愛的、といっても本当に全くかすかに、それと匂わせる程度の描写が数回あるだけなのですが、一部の国や地域ではこの点が「不道徳」として、本作が上映禁止になったそうで、それは残念なことです。

 豪華キャストの中でも、エマ・ワトソンはまことにはまり役。クール・ビューティーぶりがこの作品ではひときわ魅力的です。アニメのベルとイコールとは見なさない方がいいように思います。91年よりもさらに個性をはっきりさせたベル、というキャラクターだと感じます。野獣役のダン・スティーブンスも、非常に難しいモーション・キャプチャーをこなしていますが、人間の姿の美丈夫ぶりも見ものです。それから悪役ガストンを熱演したルーク・エヴァンスも特筆ものです。これまで二枚目俳優として「ホビット」シリーズなどで見せたヒーロー然としたキャラクター像とは真逆の役柄ですが、この人がしっかり「悪」でないと、物語が成り立ちません。しっかりいい仕事をしています。それに、酒場でのミュージカル・シーンで見せる歌唱やダンスは見事なものです。

 その他の出演者もイアン・マッケランにエマ・トンプソン、ユアン・マクレガーと鉄壁の布陣です。道具姿でも、人間の姿でも安心して見ていられます。

 とにかく豪華絢爛たる映像美です。これは大スクリーンで味わいたいですね。そして、往年の名曲を、イメージを損なうことなく再現している点も素晴らしい。しかし、最後のリプライ・ソングでは、「ラ・ラ・ランド」でも大活躍したジョン・レジェンドが歌っているなど、現代的な味付けも忘れていません。

 さらに注目したいのが、「アンナ・カレーニナ」で見事な19世紀のロシア宮廷衣装を現代的な解釈で表現してオスカーを受賞し、ほかにも「プライドと偏見」や「マクベス」など史劇を多く手がけているジャクリーヌ・デュランの衣装。古典的なドレスや、歴史的な格好いい紳士服を扱わせたら右に出る者がない、という人ですが、今作でも遺憾なく、歴史的衣装への深い教養と理解を基に、上手に現代的なアレンジを試みているのが素晴らしいです。原作アニメ通りに、ベルの日常着は青色、ダンスでは黄色、野獣は青色の衣装を基調としていますが、たとえばアニメでは19世紀風の燕尾服だった野獣のダンスの際の上着が、18世紀前半までに流行したジュストコールになるなど、時代設定に即したものに変更されています。

この作品は、フランス版の「美女と野獣La Belle et la Bête」(2014年)でも同じような解釈をしていましたが、ちょうど、男女ともに服装が大きく変わる時代が背景にあります。原作の小説をヴィルヌーヴ夫人が書いたのが1740年。それゆえに、この物語を映画やアニメにする場合、18世紀の半ば前後を背景とすることが多いのですが、この1740年代から1世紀ほどの間は、西洋の服装が大きく変化した時期でした。男性の服装で言えば、お城の王子や使用人たちは、17世紀~18世紀中盤までに流行した半ズボンやホーズ(長い靴下)、くるくる巻いた白いカツラ、ジュストコールと呼ばれるシングルで、刺繍の入った豪華な上着、それに白塗りの化粧や付けボクロ、などをしています。一方、18世紀後半の、そろそろ王政が終わる時代、やがて革命から19世紀のナポレオンの時代、という頃にはフランスの服装が変化します。女性は大げさな宮廷ドレスから、シンプルな服装に変化し、男性たちもカツラを使わなくなり、男性の化粧も廃れます。半ズボンより長ズボンが普通になり、実用的な乗馬ブーツも流行します。衣服はアウトドア仕様のダブルの乗馬服が流行します。帽子も徐々に、三角帽から二角帽に変化します。本作もよく見て戴ければ、冒頭の王子の服装と、ガストンが着ている服装が上のような変化を示しているのが感じられると思います。もちろん、史実に基づいた劇ではないので、そこまで厳密ではないのですが、魔女の呪いのために経過した「時代の変化」を、服装でも表現しているのがよく分かります。そういう点もさすがに抜かりない、見事な映像作品ですね。

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コメント

おかげさまで、観に行きました。美しかったです。貴族男性がリボンをしていました。豪華な衣装でした。華やかなシーンだけを2回見たいです。

投稿: 大福 | 2017年5月13日 (土) 20時12分

大福様 コメントありがとうございます。衣装の面で言えば、時代考証的な部分とオリジナリティーをうまく両立させており、非常によい映画だったと思います。

投稿: 辻元よしふみ | 2017年5月14日 (日) 22時31分

二度見に行きました。最初や最後の貴族のダンスシーンは素晴らしかったです。またベルが町を歩くときの群集の衣装も素晴らしかったです。衣装デザイナーを尊敬します。どうやったらそんな感性になれるのかなと思います。

投稿: 大福 | 2017年6月27日 (火) 22時37分

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