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2009年5月31日 (日)

山手スピチュラルホテルとシャボテン公園(伊豆)

 先日、入院の後養生ということで、伊豆・修善寺にあります山手スピチュラルホテルhttp://www.spituralhotel.com/に行ってきました。ここは伊豆・シャボテン公園グループが経営するホテルで、「心身求養」をコンセプトに、疲労回復とか、私のような病後の療養などに最適、という温泉宿であります。ゴージャスな宿ではなくて、とにかく落ち着ける宿、というのを求めていましたので、これはぴったりなのでした。
 修善寺までは東京駅発の「踊り子115号」で直通、駅に着くと迎えの車が来てくれていました。そこからホテルまでは・・・かなり遠い、というか伊東市に近いところまでどんどん山を登っていきます。その小高い山の頂にスピチュラルホテルがあります。
で、到着するとさっそく、食事のアレルギーチェックの確認があります。こちらは予約時に向こうから「アレルギーのある食材はありますか?」と質問されますので、その再確認をするわけです。その後は宿のスタッフは丁寧だけどよけいなお節介は一切しない、ということを徹底。こちらから呼ばなければまったく来ません。それがポリシーで、布団をしくのも自分でやりますけれど、その分は料金設定も非常にリーゾナブル、実に落ち着けます。
 窓から見える山並みは美しく、ちらほら遠くにホテルかリゾートマンションらしきものが見えるだけで、人工のものなどほとんど見当たりません。静かそのもの、ホーホケキョ、などと鳥のさえずりも聞こえてきます。
 なんといっても素晴らしいのは「心養料理」をうたう食事で、実に目にも舌にも見事な料理が出てきます。実のところ、これまでいろいろ泊まってみましたが、最高に素晴らしいものの一つ、と言い切ってしまいましょう。
 朝も和洋折衷で食べきれないほど出てきます。これまたまことに美味しい。
 温泉設備は、たまたま閑散期だからですが、もう貸切同然でした。露天風呂と大きな内風呂を飽きるほど堪能いたしました。
 翌日は、グループのシャボテン公園まで車で送っていただき、もう言うことはありません。ぜひまた行きたいホテルだと思いました。
 ◆  ◆  ◆
 シャボテン公園では、いろいろ珍しい動物に、チンパンジーや鳥のショー、樹齢数百年というサボテンの数々、それから妻がお目当てにしていたサボテンの即売・・・3鉢ばかり買い込みまして、名物の「サボテンカレー」を買って、伊東駅から踊り子号で東京に戻りました。
 いやあ、いい養生になりました。いよいよこれで、会社に復帰します。

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2009年5月30日 (土)

ピッティ・ウオモの「ピッティ」って?

 先日来の私の入院騒ぎで、当初予定では今頃には出ていてもよかった新刊書が出せないでいることは既報の通りですが、これでご迷惑をかけている方のお一人が、スタイル・クリエーションズ社の滝沢滋代表です。というのも、その新刊の推薦文を紳士ファッションの専門家のお立場から書いていただいているからで、同社の滝沢代表のブログでも前に紹介されているとおり。ところが肝心の本がなかなか難航している・・・というわけです。
 が、先日はその滝沢代表から「ブログで読んで心配していましたよ」とのメールをいただきました。なんとも申し訳ない次第と感じているところです。
 その滝沢代表は、おそらく今年も6月16日からイタリア・フィレンツェで行われる世界最大規模の紳士服見本市ピッティ・イマジネ・ウオモの準備にお忙しいところと思います。氏のタキザワシゲル・モデルの紳士服は日本では初めてこのピッティ・ウオモに出展したという快挙を成し遂げたのでありました。http://www.style-creations.jp/
 あまりこういう方面に興味のない方にたとえを申し上げれば、本場アメリカのモーターショーに初めて打って出た日本の自動車メーカーとか、あるいは日本のコミケに外国からやってきて出店している人とか、まあそんな具合で、その場に出ること自体がきわめて難しいスペシャルなイベントであり、そこで堂々と老舗の連中と渡り合い、受け入れられるというのは大変なこと、というわけです。
 ◆  ◆  ◆
 ところで、フィレンツェというのも不思議な町ですね。イタリアというのはローマ帝国の後は小国乱立してまったくばらばらだったのですが、教皇領、神聖ローマ皇帝領にあちこちの小国が延々と駆け引きをしていたわけです。その中にあって、フィレンツェというのはなんといっても商工業者の街で、最盛期には共和制をとって君主をいただかない国でありました。が、実質的な君主だったのがあのメディチ家、というものです。
 そうはいってもメディチ家はなんの称号もなく、よく最も有名な人物は豪華王(イル・マニフィコ)ロレンツォ・デ・メディチなんていいますが実際には王様ではありません。ローマ帝国の皇帝がまず名乗った「第一人者」といった名誉称号すらなかったようですから、まったくの一市民。それが事実上の君主として君臨していたわけです。
 で、メディチ家の居館がピッティ宮殿といい、ピッティ・ウオモの会場なわけでありますけれど。面白いことにその「ピッティ」というのは、実はメディチ家の敵であったピッティ家が建てた邸宅だったものを、後でメディチ家が買い取った、ということです。ということでピッティ、ピッティと言いますがあれはメディチ家のライバルの富豪の名前なんですな。そのピッティPitti家はワインやウール、それに衣服も商っていたそうですが、16世紀に正式にピッティ宮殿をトスカナ大公家(=メディチ家)に譲渡した後は完全に失権し、イタリア王国成立後の19世紀末にドイツのバイエルン王国に移住(というのもご先祖がフィレンツェ共和国の駐バイエルン公国大使だった)、20世紀初頭にアメリカに移住・・・とのことで、子孫はアメリカにいるらしい。そしてピッティの名だけは今も宿敵のお陰でフィレンツェに残ったわけであります。
 一方のメディチ家というと何か深い意味合いがありそうに感じるが、英語でいえばメディシン家です。要するに「薬」家で、先祖が薬屋さんかお医者さんだったらしい。らしい、というのは実はぜんぜん分かっていない。メディチ家の紋章として有名な六つのパッレ(玉)も意味が分かっていない。先祖にちなんだ丸薬か、血を吸い出すための吸い玉ではないか、あるいは財をなしたころ中核をなしたメディチ銀行を示す金貨の意味じゃないか、と推量されていますが本当はまったくなぞの多い家なんです・・・というか、決して名門じゃなく、成り上がりなので由来が不祥なんですな。
 で、後になるとこの家は念願のフィレンツェ公、トスカナ大公に成り上がり本物の君主となるのですが、結局、最後の頃は後継ぎの子供がそろいもそろって男色に走り(!)、家系が絶えてしまう、という自然消滅をたどった珍しい君主家です。
 イタリア、と一言でまとめることは実は難しいお国柄です。が、その中でもファッションの国を自負する御当地で、フィレンツェのピッティ宮殿を会場とすることには異論がないというのは、やはりほかの・・・たとえばドイツやフランスとは明らかに違ういかにもイタリア半島的な特色が、フィレンツェ共和国とトスカナ大公国の歴史にあるからでしょう。
 

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2009年5月29日 (金)

さて復帰。スイス傭兵、バナナリパブリック、アルマディオの話題。

 さて皆様。このほど主治医より「心配なし」といわれ、産業医の許可も得て6月より復職することも決まりました。何かとお騒がせいたしましたが、本当にありがとうございました。ご激励いただいた方々には厚く御礼申し上げます。職場も、とりあえず負担の大きい宿直、泊まり明け勤務からは外してくれるとのことで、これで今回の胆石も一つの決着、となりそうです。
 ◆  ◆  ◆
 ということで、私たち夫婦の「戦史・服飾史研究」および「歴史イラスト」の作業も再開できる、というわけですが、うちの妻も、私の病気がらみのミッションはすべて終了し、やっと絵に取りかかれる、と申しております・・・。しかし今、やっている企画は古代から(それはもうシュメールとかアッシリアとか)から始まり、最新の自衛隊や米軍の装備まで網羅したような本を書いているので、いま、やっとエリザベス女王の時代あたりをやっておりまして、ようやくグスタヴ・アドルフの時代、つまり近代的軍隊のとば口が近くに見えてまいりました・・・。しかしその前に、ランツクネヒトやらスイス傭兵団やらに大いに手こずり、ことにスイス傭兵は国がらみ、州邦ごとに組織していた傭兵なのでいい加減なならず者集団の傭兵とは趣が違い、軍装や軍旗などもかなり決まっていて、軍服統一の走りと見られる要素も強いもので、ことにドイツ語圏のサイトなど調べ始めるとどんどん深みにはまって抜け出せなくなった、と申しております。
 なんによらず、どこの国についても現地の情報を原語で探さないと本当のところが分かりませんね。たとえばスイス傭兵はドイツ語でReislafer(aはウムラウト付きでライスロイファーとなります)と呼ばれます。で、今のドイツ語ではReisは英語のRiceつまりお米のことです。ロイファーはrunnerのことです。そこで英語で直訳すればRice Runnerとなり、「お米走り人」ということになってしまいます。実際、ライス・ランナーという見出し語を掲げている英語圏の情報もけっこうあります。
 しかしよくよく調べると、ReisはもともとはReise(ライゼ)で、旅行とか戦争の意味であったことが分かります。つまり本来はライゼロイファー(遠征に従軍する者)の意味だったわけですが、これが訛って変形したのでしょう。しかし英語圏の人では、このへんがすでに理解できないのですね。その情報をまた日本人が安易に英語から移転すると、「お米走り」などという意味不明の解釈が広まってしまう・・・。
 結局、こういうことが始終、起こっているのが日本の現状なんだろうと思う次第です。ほかの文化的なことや、政治・経済にまつわるニュースでもしばしば日本で一人歩きする滑稽な解釈というのは、この時代になっても理解不足に由来することが多いように思います。
 ◆  ◆  ◆
 会社で産業医と面談した帰り、久々に丸の内を歩き、それから東京駅の大丸に行き、またまた新丸ビルに戻って、いろいろ悩んだ挙句、バナナリパブリックのクリーム色で白いパイピングが入ったジャケットを買いました。
 妻はユナイテッドアローズで、服やアクセサリーには目もくれず、かわいらしいクマのぬいぐるみを売っていたので衝動買い。これしかしアローズの特注なんでしょうか。セレクトショップのぬいぐるみというのも珍しいかもしれない。
 なんやかやで携帯電話の歩数を見ると1万5000歩以上、歩いていました。これだけ歩ければもう健康状態も大丈夫、でしょうか。
 ◆  ◆  ◆
 ところで、先日、前の私どもの本の出版以来、ご縁のある新浦安のセレクトショップ「アルマディオ」さんから葉書をいただいて「お久しぶりです、お元気ですか?」と書いてあり、これはご説明しなければ、と思いましてうかがいまして・・・「実はお元気じゃありませんでした。それでご無沙汰していました」という話になったのですが、このアルマディオさんがサイトを開設されました。こちらはリチャード・ジェームズなどの上質なスーツのほか、オリジナルのスーツやシャツのオーダーもしておられます。http://www.armadio.jp/
 私も快気祝いとしてイタリア製のちょっとかわいいハットを一つ、買いました。こちらはピンバッジなどのアクセサリーも面白いものを置いておられます。お近くの方はぜひご覧になってください。

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2009年5月15日 (金)

入院とゲームとへそのゴマと。

 なかなか2か月以上も寝て暮らしていたので、体力万全とはいきませんが、少し近くを出歩いてみております。まあやはり、足腰が弱っているのと、食後に休みが必要、という感じですが、しかし1週間が過ぎてかなり感じが戻ってきました。
 先日など、携帯電話の万歩計を見ると9000歩以上歩いていましたので、まあこのぐらい歩ければなんとかなるかな、と。ただ、疲労がまだちょっと早いかな、という自覚がありますので、とにかくゆっくりやらしていただきます。
 といいつつ、2か月もの間、自分の仕事も、また毎日、病院に来てくれた妻のほうの仕事も停滞しておりましたので、そのへんも少しでも取り戻せるように、と思っております。
 ところで、入院中に私は、結局のところテレビはつまらないので(今やどこの病院も床頭台にテレビ設置が標準ですが、本当に入院患者の人がみな怒っているんです、暇つぶしにならない、というのです)とうとう携帯ゲーム機を買い込みました。それも二台も。PSPとDSです。そしてほとんどの時間を、ゲームをして過ごしました。
 特にDSの「シムシティDS2」と「レイトン教授の最後の時間旅行」、PSPの「戦国天下統一」「注文しようぜ! 俺たちの世界」「羊くんならキスしてあげる☆」にはお世話になりました。本当にこのへんがなかったら乗り切れなかったと思います。ほかにもいっぺんに10本ほどソフトも買い込みましたが・・・まあ我ながらなんですね(笑)。
 ◆  ◆  ◆
 そういえば、前の胆石症の記録で書き落としたことがあるので補足。まず胆石発作のある人は①油もの②乳製品③卵、とくに卵白・・・だからホイップクリームなんかも×、です。これらは胆嚢を収縮させ石を動かします。また、手術の前にはへその掃除をされました。なんでだろうと思っていましたが、へその穴を切開したのでなるほどでした。ほかに普通は胸や腹、脚などを除毛しますが・・・私の場合は日頃から自分で無駄毛を剃っているので、看護師さんに「わ、きれい。まったく必要ないですね」と感動されました。

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2009年5月10日 (日)

GOEMON

 先日、病院を退院した後、その足で舞浜イクスピアリの映画館に行き、映画GOEMONを見てきました。病院から映画館はほど近く、このところ検査や退院のたびに、気晴らしに映画を見ていた次第です・・・。
 で、そのGOEMONですが、信長、秀吉、家康が出てくる戦国ものですけれど、どちらかといえばファンタジーのような、大筋は史実を下敷きにしているがパラレル世界のような感じのお話で、まあゲームなんかでよくあるようなデフォルメしたお話です。
 で、あの大泥棒・石川五右衛門が実は織田信長の元家臣で、信長の死後に泥棒稼業に入ったけれど、あることから本能寺の変が明智光秀の単独犯行じゃなく、バックに意外な人物がいたことを知る、という展開です。恩人である信長の敵を討つべく、五右衛門は天下人・秀吉が住む大坂城に乗り込んでいく、ちょうどそのころ、信長の姪にあたる浅伊茶々は秀吉の側室になるよう強要されているところでありました・・・という感じです。
 で、もう出演者は皆さん熱演・快演ですが、なんといっても中村橋之助の信長がかっこよすぎ。それに、さすがに歌舞伎の人、例の敦盛の「人間五十年・・・」が決まりすぎ。いや本当にかっこよくてぞくぞくしました。基本的に信長は回想シーンでしか登場しないのだけど、全編を通して陰の主役は信長ですね、この映画。それに、みんな衣装も建物も相当にデフォルメして安土桃山+近未来SFという風情の演出なのに、信長だけは変な感じがしないのがすごい(笑)。西洋風の甲冑にマントを着こんだ信長は、彼だけぜんぜん「いつもの信長」といいますか、「信長ってあんなもんでしょう」というか、けっこう大河ドラマなどでも織田信長だけはどんな変な格好して派手な城に住んでいても違和感がないので、この映画でも信長だけはぜんぜん意外でもなければ変でもないのがかえっておかしかったです。
 紀里谷監督にはこのノリで信長だけの続編作ってほしいぐらいです。
 そういえば、信長が金のハクダミをした頭蓋骨で酒を飲むシーンが本作にも出てきますけれど・・・あの頭蓋骨って浅井長政のものでは? となると浅井茶々、つまり淀殿の父親なんですけど・・・。
 さらにいえば・・・ラストシーンで意味深なんですが、茶々は生き延びるわけで、あのあとで伊武さんの家康と大坂の陣を迎えるんでしょうか? 映画の中のセリフで「真田幸村」という名前も出てくることだし、あのまま平和になるわけじゃないと思いますが、そのへん考えてしまいます。
 ま、そのへんはともかく、非常によくできた娯楽作品で、また真面目な戦国ものが好きな人でも大いに楽しめると思います。史実を大胆に再構成したストーリーですがなかなかによく練れており、面白いです。
 前作ではなにかと当時の奥さんの名前にかくれて、それに「新造人間キャシャーン」というちょっとマニアックな題材、あまりに陰惨な展開のため正当な評価を受けなかった紀里谷監督も、今回は適度に暗く適度に明るく、適度に爽快、適度に悲しく、娯楽作品としていいバランスを保っており、文句なく本領発揮、を感じさせます。次にどんな作品を作るのか、期待を抱きました。

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2009年5月 9日 (土)

胆石症、総胆管結石、腹腔鏡下胆嚢摘出術の顛末

 ということで、ようやく退院いたしました。御関係の皆さま、ご迷惑をおかけいたしましたがいろいろお気づかいをいただきましてありがとうございました。
 ・・・と、こう書いて、詳細をご存じない方もおいでのはずなので書きますと、3月の半ばからここまでに入院3回、手術2回、ということになりました。病名は胆石症、胆嚢炎、および総胆管結石、ということでした。
 ◆  ◆  ◆
 3月13日、夜になって腹部に激痛が走りましたが、3時間ほどで回復したため「もしまたこういうことがあったら病院に行こう」と思いそのまま観察。
 そして3月18日朝、再び同じような激痛があり、タクシーで最寄りの病院に、と思いましたが我慢しがたく、救急車を呼びました。
 担ぎ込まれた病院で「右腹部が痛いなら胆石の可能性も」といわれ、自分もひょっとしたら、と思いました。翌日、CT検査と超音波検査で胆石と断定、肝機能の数値が極度に悪くそのまま入院、絶飲食で点滴、となりました。
 このU病院で、3月19日から27日までお世話になりましたが、肝機能が安定したためいったん退院。土日をはさみ30日に、U病院の紹介状を携えてJ大学病院を受診しましたところ、手術を前提に検査、と指示されまして、またレントゲン、CT、心電図などの測定をするとともに、総胆管結石がある以上、外科的手術の前に十二指腸乳頭部の切開手術(EST)を内科で受けてくれ、といわれました。
 そこで4月1日に内科を受診し、6日に入院、即日にESTを施行と告げられました。これは内視鏡で口から十二指腸に達して総胆管と十二指腸の間の乳頭部という部位を切開、これ以上胆嚢から胆石が落石してきてもつまらないようにする措置です。
 まずは麻酔薬でうがい、ついで麻酔ゼリーを5分間、口に含み、さらに麻酔薬を飲み干しまして・・・しかしマウスピースは大きなもので、生まれつきものを飲み込んだり口を大きくあけるのが苦手な自分には地獄の苦しみでしたが・・・その後、点滴で傾眠状態に入って内視鏡そのものは難なく入りました。しかし・・・切開となると激痛が走り、どうも私はそのへん、麻酔の効きが悪いらしく、ふつうは記憶に残らないのでしょうが、はっきり記憶に残っていまして、「ぐわああ」とうめいてもがいたのを覚えております。
 いやあ、案ずるより産むがやすし、は嘘ですね。完全に産むより案ずるがやすし。
 とまあ、かなり苦痛を伴う切開術でしたがなんとかクリア。その後、合併症などもありうるので10日まで入院しました。
 13日に再び外科に戻って、さらに検査を求められましたが・・・なんと上部消化器を念のために検査するため、またも内視鏡を、と言われこの世の終わりのような絶望感にとらわれました。
 が、医師の指示なのでしかたなく15日にまたも内視鏡検査。今度は傾眠にしないで試しにのんでみましたが、まったくダメで内視鏡を吐き出してしまいました。そんなわけでまた点滴をやり・・・30分で終わるはずが、麻酔さめるまで2時間ほど、またまたひどい目にあいました。いや本当に内視鏡にはトラウマができてしまいました。
 さらに肺活量検査やエコー検査をやって、4月27日に入院、28日に腹腔鏡下胆嚢摘出術、と決定しました。これは大きく開腹せず、胸の中央、右胸部、それにヘソの部分の3か所(場合により4か所)をレーザーメスで切開し、腹腔鏡を差し入れ、肝臓を持ち上げて裏側の胆嚢を探り、胆管をクリップで閉じて、胆嚢を切り取り、ヘソを切り開いた穴から取り出す、というものです。昔は胆石というと大きく腹部を切開し、内臓を全部取り出して裏側の胆嚢を取り出しましたが、1990年ごろから腹腔鏡手術が一般化し、今ではこちらが第一選択、難しい場合にのみ昔のような大きい開腹、ということだそうです。  
 事前にいろいろ調べて、全身麻酔による胆嚢の手術にはイメージがありましたが、とにかく自分の場合は胆石の中では、黄疸まで出たかなり重症のほうなので、炎症、癒着の程度によってはよくある「日帰り胆石手術」のような簡単にいかないことも想定され、かなり不安でした。
 手術前日、ひそかに恐れていた「浣腸」とか「2リットルに及ぶ下剤の服用」とかはなく(下部消化器の手術ではそのような苦痛を伴う準備措置があるようです)、単に下剤として錠剤を二粒、飲むだけですみました。麻酔医、執刀医の説明があり(例によっていろいろリスクを聞かされ、脅されますがまあ想像の範囲内です。全身麻酔の手術ですから万一の場合があるのは当然です)、午後9時から絶食、0時から絶飲食。
 翌28日朝、まずは点滴、それからこれも恐れていた「鼻管」・・・これは胃液を吸い出して万が一の嘔吐の場合、胃液が肺に入ることを防ぐ措置です・・・を医師が鼻から通そうとしましたが、ものすごく苦痛でやっぱり駄目。とにかく私には口や鼻から何かを通すのは全部ダメなんですが、そこで、この管も麻酔で気絶した後に入れてもらうことにしました。
 ほかに、麻酔中に尿管・・・つまり膀胱にチューブを入れ小水を採るものですが、意識がある場合には激痛を伴いますがこれも気絶中に、さらに麻酔をかけると喉に気管挿入といって太いチューブを押し込み呼吸をコントロールしますが、これも気絶中にやります。もちろん普通の状態じゃ絶対にそんなもの、喉に押し込めません。よく全身麻酔の手術ではたばこを吸う人は危険、というのは、気管挿入すると痰が多く出るので危険が伴うのだそうです。また術後も喉がどうしても傷むため、普通の人より痰で苦しむことになります。
 9時に手術室までベッドで運ばれ、そこで浴衣を脱ぎ、手術台に横たわりました。背中から脊髄に注射する下半身局部麻酔と違い、全身麻酔ですのでまずl口にマスクを着け、点滴しながら眠りに入るというものです。
 一番心配していたのが麻酔の効き具合で、前に歯医者でも、また前回のESTでも点滴程度ではかなり意識が残っており、自分は効きにくいかも、という不安がありました。よくいわれる「3つ数えてください」というのはここの病院ではなく、マスクを当てられて数秒、
 「はい、そろそろ効いてきましたか」と聞かれました。「うーん、ダメなようですな」
「・・・そろそろ、効いてきましたか」「いやあ・・・まだ駄目ですね」
「・・・・・・そろそろどうでしょうか」「うーん・・・まあ、そろそろ・・・」
 こういうやりとりを3回、したところで私はようやく気を失ったようです。
 そして、この効いたか、効かないかというやりとりがまだ繰り返されているのか、と自分では思っているうちに(つまり4回目の質問が来るのかな、と思った瞬間に)意外なことに麻酔医から聞かされた言葉は「はい、辻元さん、終わりましたよ」でした。
「お、そうですか・・・なんか、やり取りしてる間に終わりましたね」
「やり取りしてる間、ですか?」と医師がちょっと面白がるように言いました。
「何時ですか」「11時半です」「おや、早いですね。じゃあ順調だったんですね」
「はい、順調でした」
 そんなやりとりをしましたので、まったく意識ははっきりしたまま病室に戻りました。
 しかし徐々に麻酔がさめてくると激痛が襲ってきました。いかに腹腔鏡下の手術とはいえ開腹しているのだから当然です。幸い、これも鎮痛剤を入れてもらって30分ほどで緩和。
 24時間後、心電図と尿管を抜いてもらい・・・この尿管を抜く、というのがまたかなり激痛というか、気持ち悪いのですが、とにかく抜いてもらい、まもなく点滴も終わって、術後1日で、早くも立って歩けるようになりました。傷口は痛いですがまあ、それほどのこともありません。29日の昼からは食事も再開しました。場合により肝臓にドレーン(管)が残る場合もあるようですが、今回はそれもありませんでした。麻酔の気管挿入のため痰も出て身を起こせない間は苦痛でしたが(咳払いするだけで傷口が痛みますし)それも3日ほどで完全になくなりました。
 そして・・・以後の経過は良好で、合併症も起こらず、傷口も問題なく、5月の7日午後に退院となったわけです。
 ◆  ◆  ◆
 結局、入院日数はトータルで25日、手術2回、検査はもろもろで20回ほど。大変なことになってしまいました。世間一般では胆石というとごく軽い病気と受け取る人が多いようですが、それは発症していない状態で、私のように総胆管がつまり黄疸が出て肝臓の合併症までいっているとそう簡単ではすみません。このように2、3か月はかかってしまいます。手術の経過によればさらにもっとかかったかもしれません。
 実はここ1年ほど、ストレスがあったり少し重いものを食べると胃が痛い、と思っていました。特に日頃から早食いで体力に自信があって無理をしてしまうような人のほうが、かえってこの病気にはかかりやすいものです。私もそうでした。
 3月ぐらいからかなり悪くなっていたようで、3月13日の最初の発作以前、たまたま撮った写真を見ても、顔がむくんでいてどす黒いというか、悪い顔色なんです。この段階で気づいていればもっと楽にすんだのでしょう。
 そして、発作が起こらなければもっと悪くなるまで気づかず、最悪の場合、命取りになったかもしれません。不幸中の幸いだったのかもしれない、と思っております。なんにしても胆石の激痛(それは本当にきついもので、脂汗がにじんで立っていることも座っていることもできないような苦痛です)も結局、2回経験しただけで済みました。
 ◆  ◆  ◆
 と、こんな具合で私の胆石症との戦いは一応、終わりました。2か月も寝ていたので体力が低下しておりますが、徐々に回復していくと思います。もし、これから胆石や全身麻酔の手術をされる方のために、一応、経過を書いておきました(私も手術の前にいろいろな方のブログやサイトを拝見して参考にしましたので)。
 ご参考になりましたら幸いです。個人的には、全身麻酔もかなり不安なものですが、2度の内視鏡のほうがいやな記憶が残りましたね。
 
 
 

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